コラム&エッセイ

 

雑感 正しく歌うということ

公開セミナー ご報告
 古典の音というテーマで行った講座で18世紀の音楽家たちが求めた正しく歌うことの意味について音程感を中心に話をしたが、歌うということについて一般に誤解もあるようなのでそのことを書いてみたい。
 バッハの時代には歌われる音程への注意力は現代より高く、細かく微妙な差異を聞き分けていたらしい。例えば、全音程を9段階に分け大半音(e~f cis~dなど)に5、小半音(c~cis a~asなど)に4の幅を与えその音程の差異を聞き分けていた。調律された鍵盤楽器にとって音程は演奏者によって作れるものではないと思われるかもしれないが、そうではない。演奏者の音感によって正しい音程が鍵盤楽器でも作る事が可能なのだ、いやそれどころか鍵盤楽器においてこそ、音程を正しく作る事の重要性が明らかになるのである。なぜなら転調による和声の変化に応じて同じ音でも身体の中で感じ取られ歌われる音程は揺れ動くべきものだからである。例えばgisとasでは勿論違う音が作られなければならない。現代ピアノ教育においてそのことが忘れられているのではないか・・・そういう内容の話をしたのである。    私が“歌う”という言葉を多用してしまったこともあるのだが、誤解を招いたふしがある。日本では歌うという言葉が、感情を込めること、いわゆるこぶし的な歌いまわしをすることと繋がってしまうようなのだ。それはあまりにも安易で驚いてしまうが、しかし思えば、実際の音楽教育の中で正しく歌うということが考察の対象となってきただろうか。歌うことは崩すことだ(上等に言うとデフォルメする)、といった認識しかされていないのが本当のところではないか。声を出して歌うときには(正確に言うと音を動かす時に)音の通り道を身体の中に作らなければ歌えない。その音程の距離感を身体に整える事が正しく歌うことを学ぶという意味だ。フレーズ全体を見通して和声的な力学に応じて音の動きを整え音楽の文章を正しく形作る事が音楽的な演奏につながる。それは極めて理性的で客観的な作業なのである。歌うという言葉をその意味で理解してもらいたい。そうすれば、すべての技はベルカント的な身体感覚から生まれると言えるし、ホロヴィッツが語った“技の基本はすべて、ベルカント”という言葉の意味もそこにあるのである。ついでに言うとベルカントという言葉も翻訳不可能な言葉である。声楽家は各人異なる身体を持っているのであるから方法論は各人様々なものであるはずだ。ベルカントというのは方法論というものではなく、一つの原則のようなものであろう。正確には原則への想念のようなものと言えるかもしれない。ここで次のようなことに考えが及ぶ。方法論とかメソッドと言うものは、あくまで一人の人間が編み出す極めて個人的なものであって、誰にでも汎用され得る便利な道具として方法論を考えてはいけないということだ。ましてメソッドによって人を導こうとすることは大きな誤りであるということだ。しかし原則というものは厳然として存在するのだ。そのことを理解したうえで各人がそれぞれの方法論を作っていくべきである。私はそう考える。

ブラームスピアノ協奏曲 第二番

2016年8月28日に東京第一生命ホールで増田宏昭氏指揮によるジャパン・クラシカの第8回定期演奏会で演奏いたしました。アマチュアオーケストラですが皆さん音楽を愛し演奏していて、とても良いオーケストラでした。この曲は50分以上かかるスケールの大きい曲で、ピアニストにとって難曲中の難曲です。事前の練習では小さいピアノでのオケ合わせとなり、なかなか音楽が伝わらずに苦労しましたが、演奏会当日はホールの響きとスタンウェイのピアノによって初めて私もオーケストラもお互いを聴きあえたように思います。 オーケストラの皆さんありがとうございました。  この演奏会の話は、大学時代の友人でもある増田氏から2月1日にドイツから電話が入り、打診されました。定年を3月に控えた私は、大学で最後の試験シーズンの真っ最中でした。 若いころから弾いてみたかった憧れの曲でしたが、何しろ技術的にも音楽的にも難しい曲です、すぐに断るのも癪だから、2日間時間をもらい弾いてみました。若い頃は力任せに挑戦していたのですが、歳を重ね音楽的にも技術的にもしなやかに難しさを拡散していく方法が身についてきたのでしょう、通して弾いてみて何とかなるような気になっていました。引き受けることを連絡してから、8月までの間猛練習が続きました。定年を迎え新たな音楽人生のスタートを考えていたこの時期に、このような形で、まずはピアニストとしての猛練習で始められたことを幸運に思います。とはいっても7か月でこの大曲を産み落とさなければなりません・・・、時間を逆算してスケジュールを立てましたが、なんと早く時間が過ぎていったことでしょう。演奏会当日になって、あと数か月あったなら・・・という思いがありました。至らないところは多々ありましたが、増田氏の見事なサポートのおかげでブラームスの音楽を楽しむことができました。聞いてくださった方ありがとうございました。  Youtubeで"Japan Classica Brahms" "Pianoconcert no.2" と検索をかけると第2楽章が見られます。

ピアニストの発声法

公開セミナー ご報告
 少し時間は経ってしまったが、6月10日札幌 23日東京で公開セミナーを行ったので、そこでの話を要約してみよう。
講座ではピアニストの発声法と題して西洋音楽の楽音というものに共通するベルカント的な感覚について話をした。かつてホロヴィッツが彼の超人的なテクニックの秘密を問われて、ベルカント!と一言で片づけてしまっていたのを思い出す。芸談風の話は常に分かりやすい。ホロヴィッツの言葉もなるほどと納得することはできるのだが、さてどういうことであろうかと考えると、難しくなる。だいたいベルカントという言葉自体が定義できる筋のものではあるまい。ベルカントとは直訳すると“美しい声”であるが、声楽家が目指す発声の理想形を指すようだ。聴覚というものは一般にその音が発生した原因や状況を統合して判断させるという機能を持つようだが、音楽において音は演奏者の身体感覚を表すものだ。声楽の声は歌っている人間の身体感覚を表現し、その身体感覚は聞き手に伝播する。理想的なベルカント発声を手に入れると、音程やダイナミックを自由に変化させ得るし、美しく音と音の間をつなぐことができる身体の状態となる。つまりベルカントとは音楽の機能を何不自由なく満たせる演奏者の身体感覚ともいえるものである。この意味でホロヴィッツは使ったに違いない。そうなるとこのベルカント的身体感覚はすべて楽器の音に共通する楽音の理想となのである。  さて我々が親しんでいるピアノという楽器について考えてみよう。音を出すということに限って言うとピアノは最も簡単な楽器である。誰でも鍵盤を押せば音が出る。他の楽器では音を出すこと自体が難しいが、音を出せるようになるまでの過程で音楽的な準備が次第に整うといった面がある。フルートやヴァイオリンのことを考えてみるとよい。ピアノから音楽に入る子供は多いが、音の長さや音程を作ることなど、音楽の機能を学ぶことが疎かになりやすいという欠点を持つものだということを指導者は理解していなければならない。ピアノの曲は音が多いので両手を駆使し弾くこと自体が難しいから、音を大切にすることよりも頭の訓練、運動をコントロールするトレーニングをすることに努力が偏るのは致し方のないことかもしれないが、美しい音への思いは音楽への入口であることを忘れてはならないだろう。  音楽の勉強が進むと次第に音質の問題が意識されるが、それはピアノ以外の楽器、オーケストラ、声楽を知ることによって、つまり音楽経験の蓄積によって音への意識が高まるからであろう。ピアノを含む鍵盤楽器は悪く言えば本当の楽器の代用品的なところがある。レッスンでも、声のように、ヴァイオリンのような音で・・・、木管楽器の響きで・・・、などとは日常的に使う言葉であろう。  講座ではピアノの鍵盤の沈み込む僅か8mmの中でいかに加速度や重量を加減しながらエネルギーを音に変えていくかを、一つの方法として私が日々実践している練習法を説明し、楽音として示してみた。勿論、これが唯一の正しい方法だというつもりはない。人それぞれに違った身体を持ち、感覚を持っているのだから違った方法があって当然である。しかしベルカント的な身体感覚として、そこに共通した原則があるに違いない。タッチの問題は量的なものと質的なものとが交差する大変に興味ある不思議な世界なのである。紙上では音を示しえないのが残念であるが、これからもセミナーでは実際に音と音楽を示し、文章では音楽する行為について考えていこうと思う。ホームページに掲載した現代ピアノ演奏論の中に、文章で表せる範囲でピアノのタッチについて書いたので、興味のある人は読んでほしい。  講義のほかに公開レッスンも行った。札幌ではハイドンのソナタを渡部美蕗さんが弾いた。いわゆる古典作品の演奏について、教育の現場ではそれが大切な基礎であると、どの教師も言うところであるが、単にテンポを正確にとか、ロマン的なルバートを排除してとか、を言うにとどまり、学ぶ者にとっては古典作品が窮屈なものに思えてくるように感じるであろうと思われることが多い。そうではなく古典といわれる時代の作曲家が尊ぶ構造的なものを美的に感受する力を磨くことで、もっと古典の作品を自由で生き生きとした演奏することができるはずである。この点を少し修正してみたが、ハイドンの世界が実に豊かであるかがレッスンを聞いた人に伝わったのではないかと思う。    東京ではブラームスの作品118から三曲を橋詰香菜さんが弾いた。ドイツロマン派の作曲家はドイツ古典の作曲家が築いた形式の美しさに敬意を払いながら、新しい時代の音楽芸術の形がどういうものであるべきかを模索し、腐心しているのである。演奏に際しては曲の持つ強いロマン性に負けずに、作曲者の作品構造への意匠に目を向け、音楽として、しっかりした器を作るように心がけて演奏を形作ることが大切になる。単に気分的なものに支配された演奏では音楽の深いロマン性を聞くものに伝えることはできない。レッスンではブラームスの音楽に必要な音を作る方法、作品構造上の工夫を読み取ることを中心に話をしたが、演奏がそれによってブラームスの音楽に近づいたことを演奏者も来ていた人たちも聞き取ったことと思う。音楽はなによりも聞くことによる経験の蓄積が大切である。そして最初に述べたベルカント的な身体感覚を大切にして楽音を磨くことが豊かな音楽性につながるものであることを強調しておきたい。前にも書いたが、紙上では音楽や音は示せないが、考えを整理し、思索の経路を示すことは文章でしかできない。公開セミナーで音を示し、ホームページ上で、言葉によって意識を高め、音楽する楽しさと意味を人に伝えていこうと思う。

現代ピアノ演奏論

はじめに
前回はスケッチ帳に残されたベートーヴェン自身のピアノ練習を手がかりにして、ベートーヴェンの音について考えた。ベートーヴェンの身体の内で膨れ上がる音への欲求とその技巧的なものは、ベートーヴェンの音楽様式と切り離せない要素であることを述べた。今回の現代ピアノ演奏論では、今日、音楽家の意識において希薄になってきている、「音を作る技術」”Kunst des Tonbildungs”についてブラームスの51の練習曲の意味を考えながら、ピアニストとして私の学んできたことを述べてみる。   ある作品を演奏しようとするとき、その音を思わずに音楽を考えることは出来ない。ベートーヴェンはベートーヴェンの音で、シューマンはシューマンの音で演奏されなければその音楽は意味を失うのである。一人の演奏家にとっても美しい楽音への愛着と、音を磨く楽しさは音楽する喜びの大きな部分を占める。ホロヴィッツがテレビのインタビューで彼の超人的テクニックはどのように作られたのかを問いかけられたときに、子供っぽい表情と声で、「ベルカント!」と答えているのを見たことがある。名人の芸談は常に興味深いが、ホロヴィッツの言葉もその類で、音楽家なら即座に彼の言うところを直感的に理解するが、さてそれはどういうことなのかと考え出すと、そこに積み上げられた膨大な訓練の時間を思い呆然とするのである。音を作る技術は奏でられる音でしか証明できないもので、それを科学的に説明することはできないものである。しかし名人は必ず技術として自分の方法論を持っているものであり、その技術の精密な仕組みは数値的に計測できると本人が思ってしまうほど明確なものなのである。 演奏している人間の身体のなかには、計測できるものと計測を拒むものが混然と混じり合う実に興味深い世界が広がっているのである。演奏学というものが可能であるとすれば、それは音楽する人間の精神と身体の関係を科学的に解明できるところまで徹底して分析し、質と量の関係を精神と身体の経験において深く思索し哲学する領域となるだろう。

ブラームス51の練習曲について
ベートーヴェンの指練習からブラームスの51の練習曲までは、およそ100年の時間的な経過があるのだが(出版は1893年、生存中に出版された最後のもの)、そこにはベートーヴェンから一直線に繋るピアノ演奏技術の本質的なものが示されている。 ブラームスは時代からみればロマン派の後期にあたる時代を生きた音楽家である。ワーグナーを中心とした多くの表現主義的な芸術家が爛熟し解体していく和声組織の内にその過剰な表現を追い求めていった時代的潮流の中で、それに背を向け音楽の形態理念を古典に求めた音楽家である。その精神的態度は古典作品に対しては優れた解釈者となり、同時代の作品に対しても客観的態度をもって接した。ブラームスは音楽史上での彼の立ち位置を自覚した作曲家であった。 彼が残した51の練習曲はブラームス作品演奏の手掛かりになるばかりでなく、ベートーヴェンからロマン派音楽全体を見渡したピアノ奏法の総まとめ的なものになっている。実用的なピアノ練習曲と言うよりは技術論であり鍵盤楽器の発声法として、演奏する身体を科学的に分析した図鑑のようなものになっている。私はこの練習曲を扱うとき優れた職人の工房に足を踏み入れたような高揚した気分にさせられる。工房には無数の鑿や道具類が並び、そこに51の砥石が静かに置いてある。砥石はどのような鑿を研ぐのか知らなければ意味の無いようなもので、職人の技と質に対するこだわりが工房の空気の中に満ちている・・・・、ブラームスの51に練習曲はそのようなものである。昔ヨーロッパにまだ良い教師が多くいた頃には、この練習曲はよく使われ、教師は忍耐強く身体感覚としてを教えたものであるが、現代ではこの練習曲をどのように使って良いものかを理解すること自体難しくなっているのである。講座では実演しながら説明したが、紙上では音は伝えられないから言葉によって概念的に述べることになる。

短三度の狭い空間のすべての半音に指を均等な圧力で着地させる練習。ベートーヴェンのゲンコツの練習にも似ている。手の回転を使って半音の音程感を身体に記憶させることと均等な音質を作り出すことをその目的とする。面白いのは短三度と言う狭い空間の中での均一な圧量と握力を保とうとすると遠い筋肉、上腕の内側の筋肉を使ってのコントロールが欠かせない事を発見することだ。手は鍵盤に密着した状態に置かれなくてはならない。良い音質が筋肉努力を通して作られること、つまり量として認識されることに注目しなければならない。左手は右手の影響を受け同じく遠い筋肉によってコントロールされる。この時拮抗する筋肉(antagonistische  Musukelkraft)を同時使用することによって身体に拡がる感覚はロマン的な感情表現に常に伴う身体の状態である。

一見何の難しさも見当たらないこの練習の目的は、ひとつにはスラーのついた二つの和音の間のレガートと、スラーのかかった二音間のニュアンスを作ること。耳の集中力が試される練習である。音の長さを感じとるために腕をほんの少し奥へ滑らせること、・・その時親指も楽に角度を変え一緒に奥へ滑らせ、再び戻りながら次の和音を準備するという一連の円運動を身体でしなやかに行うこと。親指の練習とも言える。 ここで指摘しなければならない、もう少しこみ入ったピアノのタッチの基本原則があるが、後で述べよう。

楽譜にあるように和音の中の一音を指の持ち換えにより保持して、上下の転回和音を連続して弾く練習である。この時の腕の動きはブラームスが望んだように弾かないと美しい音質を得るのは不可能である。スタッカートのついた音は握力の瞬間的使用と同時に鍵盤の奥へ抛り投げるように滑らすことによって弾く。スタッカートの音量をコントロールするのはタッチの加速度の変化であり、タッチの入角角度を変えることで作り出すことが出来る。腕は内側の筋肉と外側の筋肉を交互に使いまるで8の字を描くように使用する。身体の遠いところ、背中や腰からの力の伝達を身体に記憶する事がこの曲の練習目的である。

腕の回転と手の回転という二つの異なった回転軸によって異なった音質を弾き分ける練習。外側の8分音符は腕と言う大きな器官の回転により少し濃い音で演奏し、内側の16分音符は手の回転によって静かに弾かれる。この二つの回転軸を身体の中に感じ取り異なった音質・音量を作る練習曲。
 

これも同じ練習意図であるがより難しくなっている。8分音符によるレガートで奏されるべき濃い音質は腕による回転によって作られ、32分音符の軽いレジェーロは手の回転の助けを受け指の軽いノンレガート・レジェーロタッチで奏される。腕の回転軸の幅より手の回転軸の半径が大きくなるためにコントロールする為に払う集中力と筋力は複雑で難しい。
 

 講座ではこのほかにも例をあげて弾きながら練習の方法を述べたが、紙上では音が示せないので、誤解を生みやすく却って多くの誤りを生む危険があるのでこのくらいでやめる。 私事になるが私の師匠はコンラート・ハンゼンというエドウィン・フィッシャーに認められ彼のアシスタントを務めていたピアニストであり、戦後はドイツピアノ音楽の伝統を伝えたいという熱い気持ちを持ち指導に当たった先生であった。この先生の下でブラームスの練習曲も徹底して学んだが、最初は自分で勝手に練習してこないように諭された。最初から先生と一緒に練習を始めるのであった。基本的なことの繰り返しではあるが実に有効なものであった。単にテクニックの問題を明らかにする事だけではなく、身体の内側から音質を聞き分ける力を養うことが出来たように思う。クララ・シューマンの娘オイゲニーがクララの勧めでブラームスのレッスンを受けた様子がオイゲニーの手記によって伝えられている。やはり51の練習曲を基にレッスンを受けたらしいが、その効果についても同じ印象を受けたようである。ハンゼン先生はこの他にも例えばツェルニー40番のスケールを指定のテンポで(かなり速い)調を変えて、しかもハ長調で私用した指使いのままで弾くことなどを当然の事ように要求したが、オイゲニーの手記によるとブラームスもそのようにレッスンしたらしい。

タッチの基本原則について
現代に生きる我々は科学的合理性の上に考える習慣を身につけている。其の上に発達した技術によって拓かれた可能性は無限に広がり我々の生活を便利にし、宇宙をも解明しようとしている。しかしそれは物理的に正確に計測できる対象に対して有効ではあるが、我々の精神や心の問題は計測できないものであり、言葉によって表現するしかない世界が残されているのである。計測出来るものと、計測出来ないものを峻別して考えることがだんだん難しくなったが、理性に照らしてこの領域を見定めようとするならば実に豊かな世界がここに拡がっている。音楽は楽器や身体という物質(計量できるもの)、と精神(計量できないもの)が交わり生命の中で美しい表現となる世界である。 タッチの基本原則についてはトビアス・マテイがその著書タッチの基本原則の中で詳細な研究を繰り広げていて大変に学ぶところが多い。

 
図1は私が学び実践している鍵盤の中でのタッチの動きを表したものだ。重さの自由な落下に握力を加えて加速度に変えて音を生み鍵盤の中に休止する一連の動きがピアノのタッチである。身体から楽器に伝えられる力をロスしないために指を鍵盤に少し沈めた位置からタッチを始めるのが良い。ピアノのアクションと身体が一つに繋がった感覚がある。その点から加速度を増してアフタータッチを通過し反射してまた鍵盤の中に留まる。鍵盤の中のいわゆるスイートポイントは楽器によって異なるが、タッチの加速度をコントロールすることがピアノのタッチのすべてであることに変わりはない。実に単純な事であるが、タッチの入角角度を変えることで楽器に与えるエネルギーを無限に変化させることが出来るし、タッチに乗せる重量を変えることによっても音質に変化を与えられる。大切なのは反射し休止するポイントの知覚である。鍵盤の底からわずかに上のポイント (a)で指を休めれば音は伸びているし、鍵盤の表面よりわずかに下の点(b) で止めれば音は切れる。鍵盤の深さは8ミリくらいだから、この休止ポイントの差は数ミリである。解りにくいであろうが、ここを感知できる神経と力が本当の指の強さなのである。ピアニストのタッチのメカニズムは力学的にまた生理学的に見れば計測可能な領域であるし科学的に解明することは可能であろう。しかし楽器に対して力を解放し音を作った後にその音を再び身体に響かせて作られる楽音の差については決して計測できないだろう。楽器の音が身体に響くという感覚は器楽奏者なら必ず感じることであるし、声楽家がベルカントという言葉で表現している翻訳不可能な身体感覚である。演奏者の身体は複雑な精神と感情が詰まった器である。音楽を聞くとき人は楽器の音ではなく演奏する人間の身体に響いた音を聴いているものなのである。

まとめ
講座のおしまいには遠山一行氏の「失われた声」という一文を紹介しヨーロッパ音楽がその伝統の中で培ってきた楽音と言うものが変質し失われてきているという遠山氏の言葉を、ハンゼンの嘆きと私の体験と重ねてお話した。ここまで述べてきたは勿論ヨーロッパで発展し受け継がれてきた調性音楽における楽音についてである。音を聞き分ける力には長い歴史のなかで培かわれ鍛えられた耳の訓練、技術の訓練が織りなす精神構造の基盤と言うべきものが存在しているのである。今日人は簡単に現代音楽を語り、調性音楽はもう古臭く脱ぎ棄てられるべき衣装であるかのように考えているらしいが、問題はそんなに簡単ではないであろう。勿論芸術は変化するし時代を表現すべきものである。しかしベートーヴェンやシューマンが現代音楽風な無機質の音で演奏されるのを見るのは辛いものである。伝統と伝承は異なる。伝統とは精神的態度のなかに受け継がれるものであり、伝承とは技術に関する事柄である。しかし芸術の世界では伝統と伝承は切り離せない。芸術にあって技術は心であり、精神は技術となって伝えられるからである。音楽は例えるならば無形文化財のようなもので、その音楽に相応しい楽音が失われたなら音楽の大部分が失われた事なのである。この事を深く思う人間が少なくなった。遠山氏のつぶやきはそのことを憂いているのである。

ベートーヴェン演奏論

はじめに
ベートーヴェンを少しでも適切に演奏する事が今日では大変に難しいことになっている。ただ単に正確に音符を追い、表面的に弾くのは簡単なことであるが、それではベートーヴェンを演奏したことにはならない。エドウィン・フィッシャーは次のように美しい言葉でベートーヴェン演奏について述べている。  “ベートーヴェンの作品を研究するに際して直面するさまざまな困難や疑問は、一人の音楽家がピアニストとしての技術を磨くことだけで解決するようなものではなく、一人の芸術家としての、いや、一人の人間としての修業の全体に関する問題である。ベートーヴェンのソナタの特徴は、有機的に成育を遂げたその構造にある。それは美しい楽想を羅列したものではなく、次々と紡ぎ出された情緒の連続でもない。いわば彼の作品は石に石を重ね合わせ、繋ぎ合せて建てられ、壁を塗られた建築のようなものである。だからすべての細部が、曲全体との関連を通してはじめてその全き意味、全き作用力を持ち得るのだ。
(*
ベートーヴェンのピアノソナタ エドウィン・フィッシャー著 みすず書房)
  また優れたベートーヴェン研究者であるワルター・リーツラーはその著書の中で次のようにベートーヴェン演奏の難しさについて適切に指摘している。  ベートーヴェン自身が言うように常に全体を見ている人だけ、言いかえれば一つ一つの楽章又は作品の持っている独特の形態理念(ゲシュタルトイデー)をあらゆる細部に生かすことのできる人だけが、ベートーヴェン作品を適切に演奏できる。ベートーヴェンの場合には、我々が全体性の理念“Idee des Ganzen”と呼んでいるあの不可思議なものを曲の最初から感じさせるようにする事が重要となる。”
(*ベートーヴェン ワルター・リーツラー著 音楽の友社)

簡潔な言葉であるが、ここで語られていることがベートーヴェン演奏の難しさのすべてを表している。全体性の理念を曲の最初から感じさせるようにする事・・・というと観念的で難しく聞こえるが、独特の形態理念をその根本的な細部であるの中に示せること、つまり最初の音の中に全体が現れるような・・、という言葉に変えれば、演奏者にとっては解りやすい。しかしそのような音を手に入れるにはエドウィン・フィッシャーが言うように一人の人間の修業の全体が関わってくる。つまり最終的には人格的なものが関わってくるが、演奏者にとっては作品に相応しい音を求めて、先ずは身体的な厳しい訓練が必要欠くべからざる前提となる。この講座ではスケッチ帳に書き記されたベートーヴェン自身の練習法を参考にして彼の奏法を研究し、ベートーヴェン作品を演奏する上で必要なを探っていく。音というものは音を発する身体の状態そのものである。ベートーヴェンの音を求めて自己を磨くことがベートーヴェンの身体に近づく唯一の道であるし、彼の作品の有機的全体を直覚できる精神に自身を高めてくれるのである。

スケッチ帳に書き残されたベートーヴェンの指練習
ベートーヴェンが彼のインスピレーションをスケッチ帳に書き留めてそこから全体を構成していくという作曲の仕方をしたことは良く知られている。インスピレーションが全体を示すこともあれば、一つの小さい動機であることもあるが、しかしいずれの場合も最初に直感に現れたものから、生来の強靭な身体と精神によって堅牢な作品を生んでいくのである。その過程がスケッチ帳を詳しく探っていくと見えてくるので、スケッチ帳は研究者にとって宝の山のようなものである。スケッチ帳を丹念に調べ上げたノッテボームによる詳細な研究は我々に多くのことを教えてくれる。

英国博物館所蔵の1786~1799年ころのスケッチ帳が印刷楽譜として読みやすい形で出版されている。私も所有しているが、それを見るとベートーヴェンがそこにいるような興奮を覚えるのである。そのスケッチ帳の中に彼自身のピアノ演奏を想像させる彼の指練習が書き残されている。ウィーンに出てベートーヴェンはピアニストとして貴族社会に認められていくのであるが、ベートーヴェンが拓いたピアノと言う楽器に対する技術の革新的な部分は彼の作品として結実する作品の内的構成要素として重要な部分を担っているように思われる。

Zur Übung der Faustと書かれた練習である。ゲンコツの練習とでも訳そうか。Faustとは手の内側の親指と小指の根元にある大きな筋肉で握力の基になっている部分である。其処を中心に手の回転する力を鍵盤に伝えるというベートーヴェンらしい力の理念が感じられる。そこにはそれまでのピアノ奏法のなかには見られなかった身体内部の力を鍵盤に伝えるという新しい意識をそこに見出すことが出来るが、この意識の変化は単に技術の問題に止まらず、形式の中に人間の個性が画一的に抑えられていた古典世界から、個人の主観を搾り出すように押し出そうとする表現の時代、つまりロマン派の時代に移行して行く大きな芸術的な変換点となるのである。どの時代においても変化は技術的な事柄から始まり次第に精神内部の深い部分に作用していくものである。この技術的な面での新しい意識はその後一世紀近い時の経過の後にブラームスが51の練習曲によってピアノ演奏技術を科学的に述べた技術論に一直線で繋がるものである。変革の時代ともいうべきベートーヴェンの生きた時代は産業技術においても、また音楽芸術が対象とする聴衆の量と質も大きく変化していく時代である。それに従ってピアノという楽器は大きく変化し表現力が増していくのであるが、この変革の時代にピアノ奏法もその後のピアノ演奏技術の基本となる身体の中から力を鍵盤に伝えていくというものに変わっていった。講義ではピアノを使い単に指で弾くことと、何かを掴んでいるような手の状態で回転力によって生み出される音質の違いを示したが、紙上では言葉によって想像していただかざるを得ない。

Die Hand so sehr als möglich zusammengehalten. それに加えて、auf das strengste ligatoと書かれている練習。(手を出来るだけ内的緊張を保った状態にして奏する事。そして厳密なるレガートで奏する事)

ここでも同じくベートーヴェンは回転する手を意識している。柔らかい握力からくる手の内的な統一感を失わず、回転軸を意識する事によって密度の高いレガートを得ることを練習の目的としている。これもまた奏法的に見て画期的な意識の持ち方なのである。とりわけ鍵盤楽器という音程を操作できない楽器にとってレガート奏法は不可能に思えるものである。それを手の回転によって離れた音と音を結び付けようとイメージし身体が不可能なことを可能にしようと努力する身体感覚を持つように導くベートーヴェンの指示はレガートと言うものの本質を示していると言えよう。このzusammmengehaltener Hand という言葉自体もその身体感覚を言葉で説明する事は不可能であり、音の質感としてのみ奏者の手の内にある音の触覚を人に伝え得るものであろう。決して固く緊張させた手の状態ではない。ちょうど弦楽器奏者の弓の持ち方に近い感覚であろう。ピアニストはその手を作るために訓練を続けるのである。講座ではこの練習も音で示し、例としてこの音と音の間の密度というものがソナタ作品10-1のテーマ、第2テーマ、そして曲全体を構成する身体感覚であることを示した。とりわけ2楽章の第2テーマにおける装飾的なパッセージもその中に1楽章の最初の音程を発見できるであろうこと、音楽の全体の意味を理解して正しく奏していれば美しくレガートで演奏できるし、この部分に多くの人が感じるテクニック的な困難さは、音楽的な問題として高次に解決されることを解説した。

クラマー練習曲に記されたベートーヴェンの指示について
ベートーヴェン作品演奏のために参考になるものがもう一つある。クラマー練習曲について、ベートーヴェンは自分の作品への練習曲として良いものであると認めているが、各曲にベートーヴェンが指示したことをベートーヴェンの晩年彼を世話したシンドラーが記憶しメモしたものが残されている。シンドラーに関してはその資料的価値に疑いを持つ人がいるのは理解しているが、この楽譜に関してはベートーヴェンの演奏を考える上で彼のスケッチに見られるものに共通した理念が見られるので、私は充分信用して良いと思う。

この美しい曲もベートーヴェンが好みそうな手の回転による密度の濃いレガートで演奏される。ベートーヴェンは次のような練習の注意点を指示している。「メロディーはそれぞれのグループの三番目の音にある、拍節を担うものはそれぞれのグループの一番目の音であるから均等なアクセントを与えて弾かなければならない、したがってこれらの重要な音は指を鍵盤の中に残して繋げて演奏される」。と書かれてある。作品26の第5変奏や、第4楽章などを弾く時思い出していただきたい。

速いテンポの練習曲である。この曲を≪指を鍛える≫という目的の為にメカニックな弾き方で、いわゆる機関銃のように演奏する習慣が特に日本で今でも残っているが、ベートーヴェンはここで次のように指示している。

「メロディーを作っているそれぞれのグループの最初の音を非常に緊密に繋げるために5の指を鍵盤の中に残し次の音が奏される前に上げてはならない。そうする事によって5の指で奏される音がメロディーとしての内的な緊密さを得る。」
指は鍛えられなければならないが、誤った方法で強くなってしまった指は音楽的に奏する事に適さなくなってしまう。そればかりか音に対する感受性そのものに影響を与え、音楽的な耳を育てられない。このことを指導者によく考えてほしいと思うのである。
音楽的に演奏しようとすれば技術的なことは大概解決する事なのである。あるいは技術的な困難さがどこから生じるのかを少し考えれば音楽的に成長できるということだ。

全体の理念を曲の最初に感じさせるということ
曲全体を構成している動機の有機的な発育を感じ取ることがベートーヴェン作品を演奏する上での喜びである。全体性の理念というものは分析によって理解されるものではなく、生命ある身体の中で直覚されるべきものであろう。フルトヴェングラーは「音と言葉」という著者の中で、偉大なものは単純である、その単純という言葉が、全体という概念を前提としているからだ。と書いている。そして全体と言う概念を持ち得るのは我々が有機的な世界に属しているからである、と続けている。 ベートーヴェンのソナタはすべて動機の発育・発展により形作られた有機的全体としての姿を現しているが、その事を作品2-3のソナタで見ていこう。


ベートーヴェンソナタ作品2-3の各楽章の出だしである。一見して一つの動機からすべての楽章が生まれていることが解る。理解する事は難しくはない、しかしこの事を演奏により聴く人に有機的な生命を持った曲としての確固とした性格を伝えることが難しいのである。講座では演奏を交えこのソナタを一つの生命体として見えてくるように話を進めたが、紙上では言葉で概念的に示すしかない。このソナタの出だしの三度の重音による動機は弾きにくく、この曲を学ぶ学生にとっては多少の恐れを伴うものであろう。
しかしソナタ全体を作っているこの動機が二楽章では美しく深い旋律を奏でるのである。gis~fis-gis-a-fisの旋律の動きをもう一度一楽章の最初の動機に重ね合わせてみれば曲全体を有機的に統一しているこのソナタの遺伝子のようなものに愛着が湧いてくるだろう。一楽章最初の動機e~d-e-d-e-f-e-d-gもe~dの音の繋がりの中に旋律的な柔らかさを感じとり演奏できれば、単に運動的なテクニックの難しさにとらわれることから解放される。ヘンレ版の三度の指使いは却って難しいように思われるが、その指使いは動機の音楽的意味の中で考えられたものである。動機の意味を理解するならばどのような弾きやすい指使いでも構わないが、三度のトリルを機械的にしっかり演奏しようとして息をつめ体を固くして気合を入れて始めたならばこのソナタは台無しになってしまう。何かに問いかけるように優しく始まるこのソナタの出だしの部分は最も重要な部分であるのだから注意して欲しい。このソナタに限らずベートーヴェンのソナタの出だしは曲全体にとって重要となる。作品31-2“テンペスト”の最初のアルペジオを気分的に崩して弾いたならば全体の意味が解らなくなるし、ワルトシュタインソナタの出だしの和音の繋がりを密度の最大限に濃いレガートで始めなければ、曲の意味がすべて失われるのである。エドウィン・フィッシャーやリーツラーの言うところの、最初に曲の全体が現れていなければならないという意味はそこにある。
作品2-3のソナタについて付け加えるならば三楽章の出だしも一楽章出だしの動機から生まれたものであることを演奏に現してみること。四楽章の出だしも難しいと思うかもしれないが、和音の連続を機械的な均等さを誇るように弾くのではなく、そこにやはり一楽章の動機から導き出される音のグループを意識して弾けば元気よく上昇していく線も全体の中で音楽的意味を持つものとして認識できる。つまり(c-h-c-d)=(e-f-g)=(a-h-c)=(d-e-f)という、動機から発生する鼓動を意識することで、そのパッセージを機械的なものと思い込んでいた時の難しさは消えるであろう。その後に続く16分音符による下降するパッセージはその前の上昇を受けての圧縮された音の質によって作られているから、音楽的なバランスを感じ、保たなければならない。その後に続く音形の中にも第1楽章の第二テーマが見つかるであろう。ベートーヴェンのソナタを学ぶということはこのような沢山の音楽的な思考法を鍛錬する事なのである。

まとめ
ベートーヴェンという音楽家は音楽史の中で最も高いところに聳える作曲家であり、以降の作曲家でベートーヴェンの影響を受けなかった作曲家はいまい。ベートーヴェンを正しく学ぶことはその後に続くロマン派作品や近代の作品を正しく理解することにもなる。ベートーヴェンの芸術に触れるものは全人格的に影響を受けるのである。ベートーヴェンを適切に演奏するためには・・、やはりエドウィン・フィッシャーの言うように一人の人間の修業の全体が関わってくるのである。 注:クラマー練習曲とベートーヴェンの指練習に関しての譜例は次のものによる 21 Etüden für klavier ,nebst Fingerübungen von Beethoven herausgeben von Hans Kann Universal Edition no.13353