コラム&エッセイ

 

第1回 忘れえぬ人たち

百瀬喬氏のこと

 街を歩いていて以前あった建物が急に無くなり風景が変わってしまうことがよくある。そして前にどのような建物があったかをすぐに思い出せなくなる。そういった体験をお持ちだろうと思う。歴史というものは所詮そのようなものなのだろう。人の場合も同じである。死は個人にとっては最終的なものである。しかし生きて在る者は心に残る、逝った人の面影は大切にして欲しいと思う。人の死というものは、残された人の記憶に残っている間はまだ完結していないのではないか、そう思うようになった。母は昨年一月亡くなったが、その魂はいつでも側にあると感じる。亡くなった人たちのことを思い出してあげようではないか。歴史とは思い出すことである。人間とは、死によって初めて人間としてのしっかりした形を得るのだともいえる。生きている人間は、弱く欠点もありフラフフラしていてどうも始末に悪いが、死んだ人間は実に立派な形を得るではないか。これからこのシリーズを少しずつ書いていこうと思う。

最初に、音楽評論家 百瀬喬さんのことを書こうと思う。 
 

 最初に出会ったのはコンラート・ハンゼンへのインタビューの時、通訳としてお会いした時だ。私は8年間のドイツ留学から帰国したばかりで、その間の日本の事情は全く知らなかったから百瀬何某がどういう人なのかも知らなかった。後年百瀬さんが「最初会ったときは、なんて生意気な人だろうと思った」と笑っていたが。12歳年上の百瀬さんは音楽業界では唯一気を許して話ができる人になった。演奏家というものに対しての考え方は一致するとは言い難かった。音楽についてもよく話したが、こちらは共感することが多かった。それが演奏家という業界言葉を使うと、途端に彼の音楽への言葉との整合性が取れなくなるのが面白かった。私は改めて現代の音楽は産業になってしまったのだと思った。

 
 業界用語で喋る批評家としての百瀬さんの時には、仕事の邪魔はせず話はしなかった。聞き流していたと言っても良いだろう。しかし私が話していて驚いたのは、百瀬さんが、私が尊敬していた、彫刻家高田博厚氏や哲学者森有正氏を良く知っていたことだ。しかも可愛がられた様子だった。森さんや高田さんは心に純粋なものを持たない人に心を許すはずはないのだ。高田さんの自宅にも足を運び、音楽についての原稿を依頼したりしていたそうだ。高田さんから自作の絵を貰ったことがあると言っていた。森さんはオルガンを弾く、練習でオルガンを弾くから聞きに来て良いよ、と言われよく聞いたそうだ。高田さん、森さんはヨーロッパというものと真剣に向き合い、自我と対峙し、その文化を身体の中で消化しようと激しく生きた人だ。音楽を愛する人たちでもあった。森さんには「思索の源泉としての音楽」という著作もある。この二人が心を許すということは百瀬喬には何か純なところがあるのだろうと思った。その後長い付き合いになったが、確かに百瀬さんには純なところがあった。彼は生き物が好きだった。特に植物には大変に詳しかった。人間に対しても、特に若い音楽家には基本的に優しかった。後年音楽評論に嫌気がさしたようで、晩年は鳥の写真ばかり撮っていた。演奏批評では生きた音楽か、死んだ音楽かを見極める勘は鋭く正確であった。百瀬さんの父君は筑摩書房の編集長をしていたそうで、文学者、芸術家を見ることが多かったのだろうと想像する。音楽家としては作曲を志したが、音楽業界の雑駁な言葉の世界にとどまってしまったのは残念に思う。ピアノ教育者連盟設立に力を注ぎ、音楽雑誌の編集長もしていた。ピアノの演奏批評で活躍していた音楽ジャーナリストである。百瀬さんからは山の話をよく聞き、山の見える良い場所によく連れて行って貰った。酒を教わったのも百瀬さんからだ。もちろん音楽の話も良くした。百瀬さんが柏に引っ越ししてからは私の家で酒を飲み美味しいものを食べた。ピアニストの北川正さんもよく合流して音楽の話が尽きなかった。北川正さんからはフランス音楽の真の姿について得るものが多かった。北川さんもお亡くなりになり寂しくなった。百瀬さんとは家族ぐるみの付き合いで子供たちは親戚のおじさんのように慕っていた。優しい人であった。最後は体調も悪そうで連絡しても電話にも出られなくなっていた。一人で暮らしていた百瀬さんを心配して食べ物を届けたりしていたが。一昨年三月息子さんから訃報を聞いた。脳溢血ということだった。私に友人は少ないが百瀬さんは良き友人であった。
 

 

第4回 忘れえぬピアニストたち

クラウディオ·アラウ、ルドルフ·ゼルキン、フリードリッヒ·グルダ


クラウディオ・アウラ
アラウも学生時代何度も聞いたピアニストだ。独特の粘着質の音でベートーヴェンやシューマンの音楽を弾く魅力あるピアニストだった。南米チリ出身のアラウはドイツベルリンでマルティン·クラウゼの下でドイツの正統的な教育を受けた(同門にはエドウィン·フィッシャーがいる)。アラウからはドイツの巨匠と同じ音楽的な質を感じる。アラウの祖先はヨーロッパからの移民でありヨーロッパ的体質を持っていたにせよ、異なる文化の中で育ったアラウがドイツ音楽の魂を伝えるのだ。異文化の中に育った者がヨーロッパの音楽を学ぶときには、すべてを根源的に学ぼうとするものだ。私たちがヨーロッパの文化を学ぶときにも同じ精神的過程をたどるから、よく解る。
アラウについては、何回も登場するドイツにおける最初の下宿の奥さんから話をよく聞いていて、今では近しい人のように感じている。奥さんは戦前ピアニストとして活躍した人で、アラウとは大の親友で音楽会など一緒に聞きに行き議論した仲だったそうだ。世界の多様な文化に興味を持ち、学んでいた。これは故百瀬喬氏から聞いた話だが、インタビューしていたら、東京で歌舞伎を是非見たいと言い出し、今日はやっているかと聞いてきたそうだ。ドイツ人以外でのドイツ音楽の正当なる継承者であった。
 

ルドルフ・ゼルキン
彼の名前はブッシュ弦楽四重奏団との共演で知っていたし、その素晴らしい演奏に圧倒されていた。ピアノリサイタルは東京で何度か聞くことができた。ゼルキンも大好きなピアニストだ。顔を真っ赤にして口をパクパク開けて、頭を振りながら音楽に向かっていくその姿勢に打たれた。音楽することの尊さを、身をもって示してくれた。ある時、バッハのイタリア協奏曲の出だしの音を思いきり外して始めた。大きな身振りであったから猶更びっくりしたし、本人はもっとびっくりしたに違いない。しかし少しも動じず堂々としたスケールの大きい素晴らしいバッハを演奏した。音楽するとはこういうことだ!と教えてもらった気がした。ゼルキンは本当に誠実な音楽家であった。
 
フリードリッヒ・グルダ

グルダもやはりドイツ音楽の正当なる継承者である。いや、そのように言われることは好まないであろう。音楽の本質だけが興味ある対象であり、博物館的に伝統を重んじる傾向や、産業的に売り買いされるような言葉も音楽も拒否した。現代というものに吐き気を感じながら生きたグルダの人生は戦いの連続であったことだろう。「この世は狂っている‼」と言い続けたグルダであったが、音楽である限りどのようなジャンルであろうと参加し演奏した。伝統も権威も否定したグルダであったが、彼の弾くベートーヴェンは深く深刻でドイツの巨匠に加えて良いピアニストだ。
最後に聞いたのは東京芸術劇場でのリサイタルだ。
バッハをクラヴィノーヴァで見事に演奏し、そのあとにベートーヴェンのソナタ作品110を弾いた。私が敬愛したドイツのピアニスト達はその時すでに存在していなかったのだが、グルダがベートーヴェンソナタを弾きだした途端、巨匠たちの音楽が再び私の身体を満たすのを感じた。
 

 

第3回 忘れえぬピアニストたち

ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ゲザ・アンダ

ホロヴィッツ
ホロヴィッツを生で聞くことができた。そのことだけ言えば足りる。そのような演奏であった。天才ピアニスト、決して真似できない、あのようになろうという希望もわかない。そのような人だった。軽く透明な音が空中を舞うようで、彼が奏する弱音は、体が耐えられなくなるほど魅惑的なものだった。ドイツに居るときにテレビでニューヨークの自宅でインタビューに答えているホロヴィッツを見た。司会者が「貴方はどのようにして、信じられないようなテクニックを身につけたのですか?」と問いかけた時、子供っぽい声としぐさで「ベルカント!」と一言で答えていた。芸談のようなものであるが、私はこの言葉の奥に膨大な訓練を想像し、其のことを考え続けてきた。すべての技は音にある、発声法に全てはかかっているという事である。当たり前の事ではあるがそれが大変に深い意味を伴ってくる。ピアノを弾く身としては恐ろしい話である。

ルービンシュタイン
ルービンシュタインも聞くことができた。とは言っても札幌で中学生の時である。新聞で当日に立ち席券の発売があると知り、会場隅で聞いた。プログラムは当日発表されるということだった。 当日は熱情ソナタとシューマンの謝肉祭を弾いた。アンコールはファリャの「火祭りの踊り」であった。色々レコードや映像でルービンシュタインのピアノは何度も聞いたが、常に健康的で朗らかであり、ロマン派の作曲家が内に抱える苦しみや悲しみは聞こえてはこなかった。ルービンシュタインからは音楽家というより役者のような立ち振る舞いを感じていた。自叙伝を読むと彼の記憶が恐ろしいほど明瞭であり驚く。チャップリンの自伝もまた記憶が細かく詳細であり、どこか似ているように思った。「私は練習はしない、音楽するだけだ」というような言い方をしていたのを覚えているが、決してその言葉通りではなかろう。それほど惹かれる音楽家ではなかったが、晩年のルービンシュタインには全く別の印象を持った。自分のためだけに弾いている、音楽に没入するルービンシュタインがいる。晩年録画されたピアノ協奏曲三曲は素晴らしい。あれが本当のルービンシュタインなのであろう。

ゲザ・アンダ
この人の名前を知っている人も少ないだろうと思うが、やはり中学生の時に札幌で聞いた。ショパンの作品25練習曲を全曲弾いた。なんと美しい曲だろうと思った。とくに6番目の曲はまるで吹雪の中を美しい馬車が走り去るような光景が見えるようだった。記憶が定かではないが音楽会は冬だったのではないか、札幌の吹雪の景色と重なっている。まだショパンの練習曲など弾かせてもらえなかった頃であったが、次の日楽譜を買いに行った。吹雪と馬車の曲を探したが見つからない・・・そして気が付いた。なんとそれは三度で書かれていたのだった。思い出して笑ってしまうが、それほどに軽々と詩的に聞こえたのだった。この話をドイツ留学最初の下宿で話したら、FrEbert(エーベルト婦人)が「そうだったでしょうね、ゲザ・アンダはそういう詩的なピアニストだったよ」と懐かしそうに話してくれた。エーベルト婦人はゲザ・アンダとは友人でよく一緒に話したそうだ。
 

第2回 忘れえぬピアニストたち

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

ミケランジェリも私が何度も聞いたピアニストの一人だ。音の魔術師である。その完璧に準備されたタッチで作られる音と音楽に、私はいつも近寄りがたい印象を受けていた。ケンプとは正反対である。それでもミケランジェリのピアノの魔力的な響きにいつも惹かれ圧倒された。ラヴェルのスカルボの出だしの、どこから聞こえてくるのか分からないような不思議な音は忘れられない。あまり話さない人なのか、話している姿を見聞きすることもなかったので、私にとっては謎の人物であった。 ハンブルクでドビッシーの前奏曲第一集を聞いた。あの音に集中しきった演奏はミケランジェリ最高のものであったのだろうと思う。聞いた後の私の頭と体の疲れ方は大きかった。それは後にフィッシャーディスカゥがサバリッシュの伴奏で行った演奏会でも同じことが起こった。力ある完璧な芸術の前では体力が奪われる。セザンヌの絵の前でも体力を消費したという感じが強く残る。ハンブルクでのミケランジェリの音楽会はそういう演奏会であった。その音楽会の翌日、これは友人からのまた聞きであるが真実である、浮浪者のように彷徨歩く老人がショウウィンドウをのぞき込んでいたそうだ、日本の音楽留学生が、ミケランジェリさんですかと声を掛けたら、無表情で頷き去っていったというのである。あの完璧な音楽はどれほどの精神の消耗をミケランジェリに強いたのだろう。その音楽会からほどなくして同じマネージメントの主催する音楽会でポリーニが同じドビッシーの前奏曲第一集を弾いた。ポリーニのファンの方には申し訳ないが、大人と子供の差があった。芸術というのは恐ろしいものだ。

私が最後にミケランジェリを聞いたのは帰国してしばらくたった頃、東京サントリーホールであった。そのコンサートは、ミケランジェリが音楽会をキャンセルしたために、急遽午前11時からのコンサートに変更になったものだった。幸い良い席であったのでミケランジェリのピアノのタッチがよく聞き取れて楽しかったのだが、意外なことが起こった。ショパンのソナタ2番であったが、第二テーマの時に大きな歌声が聞こえてきたのだ。とても良い声で歌うのだった。ミケランジェリ本人の声だ。私は驚いてしまった。ミケランジェリは弾きながら声を出して歌うような人間であるとは思っていなかったからだ。常に自分をコントロールし完璧に支配する、そんな超人だと思っていた。その時からミケランジェリのイメージが少し変わっていった。案外と気は優しく、ある意味で不器用な人なのかもしれないと思った。そうなるとあの完璧性も、また気が抜けて廃人のように歩く人間も理解できるように思えた。普通の人、ミケランジェリ。その音楽への没入の仕方、その努力の蓄積、そう考えるとやはり恐ろしいピアニストだ。私の友人であるデンマーク人ピアニストから聞いた話もミケランジェリという人間を色々想像させてくれた。彼は熱演するタイプで体を動かしながら魅力的な音楽する男であったが、ある夏ミケランジェリからレッスンを受けたそうだ。その話が可笑しくて良く思い出す。ミケランジェリは木の板をもってきて彼の背中と頭が真っ直ぐになるように、木の板ごと椅子に縛り付けた。そうしてピシュナーの有名な「指の練習」をさせたそうだ。しかも信じられない程ゆっくりと。ユーモアのある彼がその時の自分とミケランジェリの様子を真似して見せてくれた。ミケランジェリは私にとっていまだに謎の人物だ。ニーチェ氏にこの逸話からミケランジェリという人物の実像を語って貰いたいものだ。

 

第1回 忘れえぬピアニストたち

ウィルヘルム・ケンプ

忘れえぬピアニストたち。
これから何回かに分けて私が聞いたピアニストの話を書こうと思う。

最初にケンプの名前を覚えたのは、小学5年生くらいであった。NHKラジオがケンプのベートーヴェンソナタ連続演奏を全曲放送した時だ。ピアノを習っていた私は、毎回、放送の時間になるとラジオにかじりつくようにして聞いた。ピアニストになりたい、と思ったのもこの時である。
それからはケンプが私の憧れのピアニストとなった。大学時代にケンプの演奏会を何回も聞くことができたのは幸せな事だった。ケンプは連続演奏が多かったから、チケットは束になっていて厚かった。数日前から徹夜で並ばなければチケットが買えなかったが、手に入れた時には宝物を手にしたような気持ちになったものだ。ケンプの音と音楽の魅力は録音には入りきらないのではないかと思う。ホールに響くケンプの音楽は話しかけてくるような温かさがあり、人間ケンプと音楽が一致したものだった。完璧で圧倒的な演奏スタイルとは違っていた。音楽会の終わった後は皆が良い笑顔で、「よかったねー」と言い合うような音楽会であった。ミスもしたが音楽は少しも動じなかった。ある時シューベルトのソナタハ短調の展開部で音を間違えて、道を探して彷徨い始め、諦めて即興に入った。どうするのだろうと固唾をのんでいると、自然にまとめて再現部に入っていった。音楽演奏の魅力は即興的なものにある。ケンプの即興は単に感覚的なものではなく、構造と分析力から生まれる。私はその現場にはいなかったが、オルガンで与えられたテーマから見事な即興演奏をしたそうだ。 ケンプの音楽会には思い出がたくさんあるが、一つ信じられない話がある。東京文化会館大ホールでの演奏会で演奏中に舞台に猫が現れピアノの周りで休み、しばらくして上手から消えたのだ。まるで猫が音楽に誘われて入ってきたかのように思った。かなり昔の話であるから、もしかして私の幻覚かと思い、同じ音楽会を聞いた友人に確かめたが、本当であった。

その後何年かして、千葉県文化会館の館長さんの計らいでケンプの演奏会を舞台横で聞けたことがある。演奏が終わり、なぜかケンプが私に近づいてきて手をだしてくれた、握手したその手の柔らかかったこと!私の手の中で溶けるようであった。概して良いピアニストの手は柔らかい。ハンゼンの手も柔らかいが、厚みがありしっかりした握力も感じる。しかしケンプの手は本当に柔らかい「赤ん坊の手だ!」と思った。ハンゼンの部屋に写真が飾ってあった。それはフルトヴェングラー、ケンプ、ハンゼンがバッハの三台のための協奏曲を弾いている写真だった。
ドイツ留学中にハンブルクでケンプの演奏会を聞いたのが最後になった。ケンプの晩年である。終演後ハンゼンが会いに行ったときに、集まった人たちに、「まだここにドイツで一番のピアニストがいる」とハンゼンを讃えたそうだ。
ケンプは気分屋さんで、即興的でありそのために戦前のベルリンではケンプ派とフィッシャー派との仲が悪かったそうだ。しかしブラームス派とワーグナー派の対立のようなもので回りが騒ぐだけであったのだろう。チェロのフルニエ氏にケンプとのベートーヴェンソナタの演奏会が素晴らしかったと言った時に、少し複雑な顔をして、「ケンプは気まぐれなところがあり合わせにくかった」と言っていたのが印象的であった。ケンプは録音でも一回限りの演奏で済ませたらしい。フルニエとのベートーヴェンソナタには録音とは思えない、一回限りのライヴの緊張が漲っていて素晴らしい。メニューインとのヴァイオリンソナタもまた素晴らしい。
ケンプの音と音楽は私にとって故郷のよう存在である。

 

蓄音機

音というものは実に不思議なものである。音楽的な判断力をつけることと共に、音を聞く能力をつけるのは最も難しい。ソルフェージュ的なことを言っているのではない、ソルフェージュ能力は(能力といっていいのかどうかは疑わしいが)全く関係が無い。7か月の間の闘病生活の中で、私は良い音楽をレコードによってたくさん聞いた。聞いた中で常に感動したのはフルトヴェングラー指揮によるベルリンフィルの演奏で、特に戦時中の演奏には、聴衆と演奏者が一体となって音楽の中に必死に求める人生の意味が強く感じられて感動的である。カザルスとメニューインの演奏もその精神の清らかさにおいて、聞くたびに姿勢が正される思いがする。ブッシュ弦楽四重奏団の演奏もまた他の追従を許さない高みにある。彼らの演奏に共通するものを感じる。それは音楽という芸術が人間に伝える「持続」という感覚であり、それは音の中に宿る精神の力でもある。フルトヴェングラーが言うところの全体を一瞬の中に感じ取るという事、また音楽学者のリーツラーがベートーヴェン演奏の難しさについて述べた演奏者は曲の最初に全体性の理念を感じさなければならないという言葉につながるものだ。指揮者のチェリビダッケは曲の最初に曲の最後が現れていなければならない、という不思議な言い方をしていたが、同じことを言っているのだ。先に挙げた演奏家たちの演奏は音楽が鳴り始めた瞬間に精神が反応する。もはや耳が音を聞いているのではない、私の皮膚が音に反応し、音は直接身体に入ってきて精神を揺り動かす。本当の音楽はそういうものであり、音としての存在感はそこにこそある。耳で聞くような音楽は娯楽的であり、単に心地よいものでしかない。その違いが改めてよく理解できた。

前に「レコードの音」というエッセイを書いた。そこでCDの音とレコードの音の違いについての感想を書いたのだが、あらためて言いたいのはその音の質感の違いについてだ。ステレオよりもモノラルが良い。昔の録音をステレオに変えたものや、雑音を取り除き、なめらかで聞きやすい音に変換した、等というものは良くない。私の言う音のリアリティというものはその音の存在感の持つ重さである。原音に忠実な・・・などという数値的な厳密さとは関係ない。西洋骨董を見るのは私の楽しみの一つだが、ある日、店の家具の中に蓄音機があるのを発見した。しかも英国グラモホンの1930年代のオリジナルである。前から欲しいと思っていたのだが、音を聞いてそのリアルな音に驚き購入した。蓄音機で聞く音は生々しく、まるで本当に人がいて演奏しているようだ。雑音は勿論あるが、そんなものはどうでもよい。時代が古い録音は微かな音であるが、それもまた遠くの部屋で実際に演奏している人をそっと聞くような醍醐味がある。耳ではなく、皮膚が音を受け入れるというような思いがする。
 以前、なんでも鑑定団というテレビ番組で昔の録音機材が登場したことがある。昔のダイナミックマイクと現代の新式のコンデッサーマイクとの比較を司会の石坂浩二がナレーションを入れ試したところ、会場から驚きの声が上がるほど昔のマイクの音が素晴らしかった。そういう音を忘れたくはない。計測可能な世界と、そうではない世界があるという事を科学の時代に生きる我々は忘れてはならない。科学は素晴らしい成果を上げていて、人間の能力は無限に広がっていくように見える。しかし科学は計測できない世界に対してどのような態度をとるべきか、自問すべきであろう。それはまた我々の生き方を考えることでもある。

 

私のピアノの物語

今回は私の所有するピアノについて書いてみよう。ドイツに留学して最初の下宿にスタインウェイの古いピアノがあった事は前に書いたが、たぶんあの楽器は1910年代のピアノである。このピアノの音色が何ともいえない味わいで深く魅了されたのが始まりだった。タッチの調整は可なりいい加減であったが慣れれば音の味わいがすべてに優先し機能的な面は意識しなくなった。それまでは日本製のピアノで練習していたわけであるから、扱いやすくある意味弾きやすかった。しかしこの老ピアノはまるで人格を持つような個性ある音で音楽を教えてくれた。お爺さんと話をするような気持ちで練習していたと言えようか。その音は私が憧れていた昔のピアニストの音を思わせるものでもあった。

 
 しばらくしてリューベックに越すことになり練習用のピアノが必要になったのだが、私は新聞広告を丹念に調べ、1916年製のO型を手に入れることができた。外装などボロボロのピアノに見えたが音は良かった。現在も自宅で美しい音を聞かせてくれている。それから40年も経って、現在自宅には1928年製スタインウェイD型(フルコン)、やはりスタインウェイ1918年製のK型(アップライトピアノ)、多分1910年代と思われるベヒシュタイン製のフルコンサートピアノを所有している。アップライトピアノは象嵌細工が施された美しい楽器で音はアップライトとは思えない厚みがある。博物館に入れてもよい名器である。この楽器も新聞広告で見つけた。骨董の店を経営していた人のガレージにあった。娘のために持っていたそうであったが、私が弾きだすと、涙を浮かべ、是非あなたに持っていてほしいと言われた。私は楽器とは不思議な縁があるようだ。

ベヒシュタインのコンサートピアノは、戦前レオニード・クロイツァーが日本で教鞭をとることになり、来日に際してベルリンから芸大に運んだピアノの一台である。大学は使わなくなった楽器で価値のあるものは地方の大学に譲る。このピアノも北海道教育大学に払い下げられて長い間大事に使われていたようである。しかし痛みがひどく廃棄処分にするしかなくなったと聞いて、大学に見に行った。扱いも悪くスチームのすぐ脇に置いてあり、調律不可能なほどチューニングピンが緩んだ状態だった。しかし弾いてみると音には昔のベヒシュタインが持っていた上品な雰囲気が残っていて。廃棄するという事には耐えられなかった。札幌の自宅に引き取り、数年間何もせず寝かせておいた。先ずは普通の環境に慣れてもらいたかった。札幌の自宅にはベーゼンドルファーも所有しているが、東京から馴染みの調律師に来てもらった時に、ピンズル(チューニングピンが止まらない事)であることは承知だが、とお願いして調律をしてもらった。井上清士さんという調律師だが、この人はウィーンのベーゼンドルファーで長く仕事をした人で、調律は美しくその耳を信じていた。途中で部屋を出てきた井上さんが、素晴らしい!と興奮していたので期待を胸に弾いてみた。思った通り、昔のベヒシュタインの音があった。スタインウェイや、ベーゼンドルファーを弾くときには意味のある楽音を作ろうとする意識がどうしても働くが、ベヒシュタインの場合はそれとはまた違っていて、自然な音と言おうか、出てきた音が自然に音楽になるような、そんな感覚であった。その経験があって数年後、今度は僕の信頼する調律師 辻文明さんに札幌まで来てもらい、技術的な修復の可能性を検討してもらった。辻さんは僕のドイツ留学時代と同じ時期にヤマハのハンブルク工場にいた関係で知り合い、ピアノの話を良くしていて、彼のピアノの音に対す情熱をよく理解していた。古いピアノを最終的に買うときには辻さんに技術的な面をチェックしてもらっていたのだ。幸いピン板(チューニングピンを受けている厚い板)にひび割れはなかった。辻さんを責任者にして、ピアノを東京に運び全面修理することにした。修理の仕方によっては音の原形が崩れてしまう恐れがあるが、辻さんなら音を知っているから安心して任せた。かなりお金はかかったが古いベヒシュタインの音が甦った。 
 このベヒシュタインについては芸大時代の恩師、水谷達夫先生がクロイツアーの部屋にあったピアノが出ていくのを惜しんで、永井進先生と、欲しいなあ、と言いあったそうで。そのピアノが僕のところにあることを知って、大笑いし、喜んでくださった。

 長岡純子さんというピアニストをご存じだろうか。オランダに住み演奏家として活躍した人だから日本ではあまり知られていないかもしれない。私が国立音楽大学で主任をしていた時に招聘教授として大学に来られ、その折にお話をする機会を得た。彼女のピアノの音は昔のヨーロッパが持っていた高い質を感じさせた。芸大でクロイツアー先生のもとで学ばれた方である。私の自宅にクロイツアー先生のピアノがあることを伝えると大変に懐かしそうにしておられた。私も音楽的に親密さを感じていたから、お話をじっくり聞きたかったので自宅にお誘いすると、数日後ご主人と共に訪ねて来られた。ベヒシュタインをお弾きになり、クロイツアー先生の想い出を熱く話してくださった。その後に長岡先生のリサイタルがあり勿論聞きに行ったが、その音楽の風格、神々しさといってもよい、その存在感は現代ではめったに聞かれないものであった。大家から生の音を浴びた者にしか分からない音の経験の厚みがあった。残念なことにリサイタルの後、脳卒中で帰らぬ人となってしまった。長岡先生の人生の最後にクロイツアー先生との邂逅を果たしてくれたのはベヒシュタインのピアノであった。

自宅にある最も新しい楽器は1928年製のD型という事になる。この楽器は帰国後、磐田にあるベーゼンドルファーの店に遊びに行った折、目に留まり弾いてみて欲しくなった。というより、私の身勝手な思い込みなのだが、あのピアノは私のところに来たいのだと思ってしまうのだ。あとは救助するしかない。かなり良いピアニストが持っていたものであろうことは弾いて直ぐにわかった。楽器というものは育てるもので、いつしかその人の音になってくるものである。こんなことを言うと嫌われるが、ピアノを触ってみるとそのピアノがどんな弾き方をされているのかがわかるものだ。
良い楽器は先生の役目をも果たしてくれる。私の場合は正に楽器に教わったことが多い。ピアニストは本番では用意された楽器を弾くことになるが、練習のピアノが一番大事である。
 
 様々な楽器を弾きオリジナルの音を知ることは楽音に対しての感覚を磨く。ショパンはプレイエルが最適であろうし、エラールはドイツ古典にもよく合う。
あの頃は磐田のベーゼンドルファーの会社に古いピアノコレクションがあって、友人と一日中プレイエルや、ガボー、エラールなど試し弾き出来た。いまは浜松の楽器博物館に鎮座しているが、音が味わえなくてはただの骨董で、意味はない。

もう一つ、自宅にはハインリッヒ・シュッツェ製作のチェンバロがある。ハインリッヒ・シュッツェはチェンバロ製作者として、また古楽器研究者として尊敬を集めた人である。家内がチェンバリストなのでチェンバロもよく見て歩いた。ベルギーのブールージュという美しい町で夏に古典楽器の見本市が開かれる。オリジナルのコピーを様々な製作者が持ち寄り展示し、気に入れば契約を取るという見本市だ。驚くのは同じモデルでも製作者によってかなり音に差があることだ。帰国を考え始めた時にチェンバロも持って帰りたいと思うようになっていた。

 当時住んでいたリューベックの町でグスタフ・レオンハルトのチェンバロの音楽会があった。演奏は勿論素晴らしかったが、当日のチェンバロの音が耳に残って離れなかった。終演後こっそり舞台に上がり確認したところハインリッヒ・シュッツェの名前があった。チェンバロは直接製作者を訪れ、注文して製作してもらうことになっている。有名な製作者の場合何年も待たされることになる。ブールージュで知り合った製作者も含めて何軒かの工房を訪ねた時に、近くにシュッツェの工房もあったので恐る恐る訪ねてみた。シュッツェさんは気難しく、気に入らないと直ぐに追い返されると聞いていたからだ。会ってみると知的で穏やかな人で、緊張がほどけた。家内が工房でチェンバロを試弾している間、二階の事務室のようなところでシュッツェさんの話を聞いた。ハンブルクにツェレというオリジナル楽器が保存されていて、シュッツェさんもそのコピーを製作中だった。かれはバッハがどのようなチェンバロを保有していたかについて調べていて、バッハの家にはイタリア系の楽器があったに違いないと言っていた。シュッツェさんのイタリアチェンバロは素晴らしいものだ。チェンバロはヨーロッパ各地で作られたが、素材となる木の違いによって異なる音になる。イタリアでは杉の木を使うし、フランドル地方では柔らかいポプラを使う。(薩摩琵琶とお琴くらいの差がある。)シュッツェさんはとても優しく丁寧に話してくれた。帰る時に、それこそ恐る恐るシュッツェさんの楽器を持ちたい、どのような可能性があるか、と切り出してみた。そしたら・・信じられない事であるが、「貸出し様のチェンバロがある。リューベックでレオンハルトにも貸した楽器だ。それであれば譲ってもよい!」という話であった。ただし私からそのチェンバロを貸し出してくれと依頼があったときには貸し出してほしいという条件であった。日本に帰国するという事を言ってあったから、もしかするとシュッツェさんの頭に貸し出しの件が浮かんだのかもしれない。このような幸運があるものだろうか。このチェンバロはシュッツェさんも気にいった楽器らしく、健康で堂々とした音がする。家内は現代音楽もチェンバロで演奏するが、帰国したのちジョルジュ・リゲティの作品をリゲティのご指名により日本で初演した時、武満徹さんが歩み寄ってきて、今日のチェンバロは素晴らしい音であったが、何という楽器ですか、と質問してきた。それほどに楽器の力がある名器である。リゲティ氏とは家内が作品を弾いたことからハンブルク時代から知り合い、ハンブルクの自宅にも、帰国してからは柏の自宅にも来てくれた。温かみのある人で、それが音楽にも表れている。輻輳(複雑に絡み合う)するリズムの面白さを楽しそうに語る姿は子供のようであった。再演率の高い作曲家である理由が理解できる。
 
 若い頃から、どれほどの音を浴びたか・・・。今朝もメニューインとフルトヴェングラーによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聞いた。何という高潔な精神がそこにはある事か。メニューインの音は汚れたものを一切流し切ってくれる。作為もない、ひたすら純粋に音楽しベートーヴェンに近づいていく。音に精神が宿るという事、音楽の最も高次な姿がそこに実現されている。

 

忘れ得ぬ音

 私が音楽大学に入って勉強を始めたころは、まだ巨匠の演奏を多く聞くことができた。友人と徹夜で並んでチケットを買い、心を清らかにし体調も整えてその日を待った。その一つ一つの音楽会をまだ鮮明に覚えている。そういった感動した音楽会の後、友人たちと喫茶店で感動を共有するのが楽しみであった。そのことについてはまた別の機会に書こうと思う。 今日はそのような音楽会の想い出ではなく、ドイツで音楽修行中に体験し鮮明な記憶として残っている音について書いてみよう。    ヴァルター・ベリーは私の好きな歌手である。ウィーン国立歌劇場でリヒャルトシュトラウスの“影のない女”のバラック役での演技を観たが、背中からにじみ出るような内面の表現と声の豊かさは忘れられない。主役のビルギット・ニルソンの魔力的な声とヴァルター・ベリーの温かみのある声はこの歌劇の最高の組み合わせであった。ヴァルター・ベリーの歌うドイツリートも素晴らしかった。当時私の住んでいたリューベックの町で彼のドイツリートの音楽会を聞いた。チケットは売り切れて、学生のためにステージ上に席が設けられ、私はちょうど真横の大変に近いところから彼の歌う様子を観察することができた。彼の背中はふいごのように膨らみ、まるで違う生き物のように波打っていた。温かみのある声は意外と小さく、これで会場に響いているのだろうかと訝しく思った。後半は空いた席を見つけたのでホールの後ろで聞いてみた。そして驚いた。あの近くで聞いた印象、割と細く作られた声、が朗々とホールに響き渡っていたのであった。概して良い演奏家は近くで聞くと音が小さく聞こえるものである。この夜の体験は忘れられない。  後年、私が日本に帰ってきて東京芸大で教えていた頃、ヴァルター・ベリーの公開レッスンを大学で聞くことができた。「自分の体を、音を生み出す工場のように考えて、細部まで意識し機能するように訓練しなければならない」とユーモアを交えて温かく語る人間に本物の音楽家を見た。

シャンードル・ヴェーグはハンガリーのヴァイオリニストである。ハンガリー弦楽四重奏団を結成し、チェロのカザルスとも親交があり演奏も共にしていた人物である。教師としてもカザルスと同様に音楽の伝道師的として尊敬を集めていた。彼に師事していた友人からザルツブルグで彼のマスターコースがあると聞いて出かけて行ったことがある。背の曲がった不自由そうな姿勢で現れた小柄なヴェーグは、どこかのコンクールで一位を取ったという若者をレッスンしていた。曲はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲であった。この若者は一位を取ったのもうなずけるような甘美な音と安定したテクニックで弾いていたが、ヴェーグは不機嫌そうに聞いていた。二楽章のあの甘美な旋律に差し掛かったところで、ヴェーグは演奏を止め、頭を振りながら「なんと冷たいのだ!」と一言。会場は静まり返った。「この美しい旋律をなぜそのように過剰なヴィブラートと表面的な感情表現で穢すのか」その声は私にはカザルスの声のように聞こえた。カザルスもよく「なんと冷たいのだ!」と言う言葉を使っていたことを知っていたからだ。そしてヴェーグは曲がった上半身にヴァイオリンを挟み演奏した。ほとんどヴィブラートを感じない、神々しいまでに美しい音が鳴り響き、それはまったく次元の異なる世界から響いてくる音楽となった。
 音楽というものの意味を深く知ったあの体験を忘れることができない。

  セルゲイ・チェルビダッケは言うまでもなくヨーロッパ最高の指揮者の一人であった。フルトヴェングラーの後継者として期待されていたがベルリンフィルはカラヤンを後任として選んだのであった。  チェルビダッケとミュンヘンフィルとのブルックナーの交響曲の演奏は最高のものとして語り継がれることであろう。静かに音楽が開始される弦楽器の響きの中で背筋に戦慄が走るような感動を味わったものだ。「曲の最初に曲の終わりが現れる」というチェルビダッケの不思議な言い回しがその通りの演奏となって、聞く者は音の持続の世界に根こそぎ持っていかれてしまうといった感じであった。  そのチェルビダッケが東京芸大の学生オーケストラを指導するのを見ることができた。チェルビダッケは音合わせに長く時間をかけた。セクションずつ、一つのAの音が完全に一つになるまで忍耐強く繰り返した。一人から二人、前4人という風に。その結果、たとえて言うなら3センチくらいの幅があったAの音が全員で弾いても1ミリの幅に変わった。これには驚いた。まるでウィーンフィルの軽い音のように見事な音に変わったのである。そして演奏に移ったとたん、「君たちのヴィブラートは何であるか!」と一喝。「ヴィブラートは音楽の心である、一人でも勝手なヴィブラートがあってはいけない」第2ヴァイオリンとヴィオラ、という風に細部を徹底して訓練していき、音と響きを体験させていくのだった。演奏は学生オケとは思えないような素晴らしいものに変わっていった。音楽を教えると言うことは、音を体験させることだ。と、かれはよく言っていた。オーケストラの中に勉強家の指揮科の学生がスコアを広げマエストロの言葉を聞き漏らすまいとして構えていたが、その学生に向かって、「君はそこで何をしているのか?楽譜には何も書いていない、響きを体験し、耳で学ばなければならぬ」と諭していたのが印象的だった。

心と科学 直覚と分析

 私が日々の練習の中で演奏における数々の技、技術的な問題に対処するときに、警戒していることがある。それは、心と科学、直覚と分析という一見相反する精神の働きを同時に使い美しい崇高な世界に自らを引き上げていこうとしているとき、発見した方法論的な言葉が、言い換えれば、分析的な思考によって得た実感を伴った一つの言葉が、直覚した世界を固定化しようとする欲につながり、夢が夢でなくなり単なる方法論に堕ちてしまうのではないかという点である。その瞬間は必ず訪れる。そのような一種の危うさの正体を見定めることなしには、素晴らしい思い付きや音楽に対する熱意が間違った方向に行ってしまい腐臭を発するのではないかという警戒感を持つのである。私だけではあるまい、芸術家にとって恍惚と不安を伴侶として生きていない者などいないのである。芸術には様々な様態があるが、音楽演奏や役者といった総じて演じるという仕事をしている者には特に、技の習得に関して同じような問題を抱えているに違いない。特に、そういう方法論を人から学ぼうとする者は、方法論を簡便な方法として、取り入れようとしてはならないのであって、その技を必要とするに至ったその人物の音への直覚を探るべきなのである。

音を聞くという行為は、情報を統合し判断するといった経路を取ることはよく知られている。音の発生した契機を判断することは日常普通の生活の中で体験していることであろう。隣の部屋で何かが割れた音がすれば、ガラスなのか、陶器なのか、どのくらい大きなものなのか、瞬時に判断するではないか。スイカでさえ叩いて熟成を知るではないか。まして音楽の音は人間の身体から発するもので、その身体にはその人間の精神や感情がつまっている。音楽の音を聞くということは演奏者との身体的な共振を得ることで、精神や感情の全てを含んだ一切の存在を一瞬に身体で理解するということである。そうして身体で感じ取った複雑な要素を聞いた側は、今度はその感動を受容するために言葉を選ぶという複雑な経路をたどるようである。専門家は実に細やかな音のニュアンスを聞き取り判断する。音を聞くという行為は、努力のいる難しい事だということを知ってほしい。そして感受性は磨き続けていないと直ぐに退化するものである。

 では方法論的な言葉は必要ではないかというと、全く違う。名人とは必ず精緻な言葉で正確に彼自身の方法論を作り上げている者なのである。しかし言葉には頼らない。その言葉を自らの創造の溶鉱炉に投げ込みひたすら温度を上げて何物かを抽出する。それが作品であって、もしかすると作ろうとしたものとは似ても似つかないものになってしまうこともあろう。それが芸術なのだ。発見した真実の言葉もそれを忘れられなければ直覚という故郷には帰れない。特に演じる者は多くの壁を乗り越えなければならないが、地図なしでは目的地にたどり着けない。言葉は地図である。帰るべき点は人間として直覚される故郷である。言葉を忘れるためには、まず言葉を発見しなければならない・・そして言葉を消し去るために熱くなる。この複雑な回路を毎日繰り返す、これが練習というものの実態である。

ヨーロッパの音楽・芸術・精神
・・・高田博厚著作集との出会い。

 留学して間もないころに、ある牧師さんと知り合ったことは前に書いた。ドイツ人は勤勉実直な国民であり情緒的な面でも日本人と共通する面があるようだ。その牧師さんも人間的な温かさを感じさせる人であった。その人に、ある時こう尋ねられた。多くの日本人がヨーロッパの音楽を勉強しに来ている、しかし、なぜあなたたちは、母国である日本の国の芸術や文化を学ばずにヨーロッパの音楽をするのか、ヨーロッパの音楽は長いヨーロッパの精神伝統の中で初めて理解できることであろう。演奏の技術的な面は学べるであろうし勤勉な日本人は驚くほどその技術面を完成させている、しかし文化として真の意味でヨーロッパを理解するのは難しいのではないか・・。という率直な言葉であった。私はこのことについては日本にいるときから長く考え続けていた。芸術とは何か?人間の精神の働きのうちで芸術というのはどのような位置にあり、意味を持つものであろうか、そのことから考えないと、自分は音楽を続けることができないと考えていた。だから牧師さんに尋ねられた時も言いたいことはあった。しかし当時は、ドイツ語は理解できても、とてもとても意見を開陳するほどの力はなかった。その時は、あなたは牧師さんである、日本にもクリスチャンは沢山いるがその人たちにキリスト教は理解できないと考えますか、くらいのことを言った記憶がある。まったく乱暴で失礼な話である。牧師さんには失礼なことを言ったと、今でも後悔している。信仰の世界と精神伝統としての文化の理解とは並べて論じることはできない。牧師さんが言ったことは実に大切なことで、音楽を志す若い人によく考えてほしいと思う。最近ではヨーロッパとの移動も簡単になり、日本にいるのと変わらない意識で外国に暮らし、無国籍的な態度を国際人と勘違いしている芸術家や文化人をよく見かける。しかし私たちの向き合っている音楽はヨーロッパの歴史の中で他の芸術と同じく長い時代を経て陶冶されたものだ。ヨーロッパ精神を理解せずには本当には理解できない。演奏においても単に技巧を磨き達者さを身につけるだけではまったく足りない。音楽の才能豊かな学生は沢山いるが、彼らに、もっと音楽と真剣に向き合ってほしいのである。音楽を精神文化として捉えられるか、ということより、まずは自分というものが何者であるかを真剣に問うことと音楽をすることが重なるような修練を積み重ねてほしいと思う。真の美しさはそこからしか生まれない。音楽家にとっての音の問題はそこにある。

大学に入って自分の音楽人生について考えていたころに高田博厚氏の「音楽とともに」という本に出合った。高田さんは彫刻家である。長くヨーロッパに住みパリで、ロマンロランや哲学者アランなど当時最高の知的存在であった人たちと交わり、苦労しながらヨーロッパというものがその根底に有する精神の土台をしっかりと見定めた人だ。高田さんの文章は確信に満ち力強く私を鼓舞してくれた。この道なら私も音楽を一生の仕事として進んで後悔はしないと思えたのだ。若い人に高田さんの著作をぜひ読んでいただきたい。高田さんの彫刻全作品は安曇野の豊科近代美術館にある。文章で知っていただけの高田さんの全作品を初めて見たのはドイツ留学から帰ったのちである。作品とともに、若いころ熱い心にしてくれた高田さんの文章もパネルで展示してある。人間として生を受けた者は、自我というものと真剣に向き合うことなしには、生きることの真の意味を理解しないだろう。ヨーロッパの芸術はそういう精神の積み重ねの上に聳えるものである。芸術というのは決して娯楽ではない。思想と哲学がない単なる感覚の表現は芸術とはならない。日本人にとってヨーロッパの精神伝統を理解するのは本当に難しい事なのである。そういうことを教えてくれる高田さんの厳しい声が聞こえるような気がする。難しさ・・・、しかし、なにもそれを否定的に捉えてはなるまい。異質なものを理解しようとする心の動きはヒュマニテが生むものあり、異文化との交わりは、私たちを人間として在ることの根源の問題へと知らず知らずに立ち返ることへ導き、そこからまた新しい命ある芸術が生まれるのである。

ドイツ留学の想い出

  私は1977年ドイツに留学した。当時はまだ西ドイツであり、日本はバブル景気に沸く少し前であった。まだ航空運賃は高く、当時安く買うために入った日欧協会で手配して、それでも片道36万円であったことを覚えている。今からは考えられないが、ちょっとやそっとでは帰国できない額であった。その後7年間本当に日本には一時帰国すらしなかった。 ドイツに着いて三日目であったが、ハンブルクの日本人留学生から、郊外にピアノ付きで部屋を貸してくれるところがある、丁度今は空いているから連絡してあげると言われ、家を見に行った。U-Bahn(地下鉄)で町の中心から40分くらいかかるSchmalenbeckという駅で降りて15分くらい歩くとその家はあった。300坪ほどもある庭は自然な感じで気に入ってしまった。実は電車の窓からみるドイツの田園風景が美しく、すでに駅に着く前から、ここに決めたと思っていたのである。家主のEbertさんは気さくで良い人であった。前にも日本人音楽留学生がいたようで、部屋には古いスタンウェイのグランドピアノがあった。1920年代と思われたその楽器の音色の美しさに驚いたものだ。その後現在に至るまで私が古いスタンウェイの古いピアノを探し求めてきたのは、このピアノの印象が決定的であったからだろう。Ebert夫妻は南ドイツにも家を持っていて夏はほとんどそちらに行ってしまう。つまり私は大きな家に一人で住むようになったのである。北ドイツの6月は夜9時になっても明るい。庭で、ジャスミンの甘い花の香り、うたツグミのなく声に我を忘れていつまでも庭でぼんやりしていたものだ。そして、これからのこと、何を学んでいくのか、何のために私はここにいるのかを考えていた。

紹介してくれた人からEbert夫人はピアノを弾いていた人だとは聞いていた。当時もう70代後半であったと思うが、その小柄な体からほとばしるエネルギーは凄いものがあった。音楽が大好きで、驚くほどよく音楽を知っていた。しばらく時間が経ちようやくドイツにも慣れ、師のハンゼン氏のレッスンも始まったころのある日、練習でベートーヴェンの4番の協奏曲を弾いていたのだが、お昼を一緒に庭でEbert夫妻と食べているときに、夫人があの曲は懐かしい、よく弾いたものだと言ったので、どこのオーケストラと弾いたのですか、と問うと、なんと、ベルリンフィルとヨゼフ・クリップスの指揮で弾いたという。驚いてしまって、それからその午後は彼女の話をずっと聞くことになった。レシェテツキの生徒でピアニストのアラウとは仲の良い友達だったこと、当時のベルリンには素晴らしいピアニストがやまほど居て、自分は二週間置きに三回リサイタルをしたが、そのくらいしないと目立たなかったと言う、そのプログラムも見せてもらったが信じられないような大曲が並んでいた。ブラームスのパガニーニ変奏曲を弾いた演奏会にバックハウスが聞きに来ていたそうだ。バックハウスに、私のパガニーニどうだった?と聞くと、悪くなかったと、言ったよ・・でもあれはね、顔はそう言ってなかった・・と夫人は爆笑していた。
とにかく私はびっくりしてしまい、それから練習するのに緊張を強いられたものだ。
 旦那様のEbert氏は戦時中戦闘機メッサーシュミットの教官をしていたそうで、ドイツの軍服が似合いそうな素敵な人であった。日本のこともよく知っていて現代の日本がどのようになっているかをよく質問してきた。日本では戦争ことを極力忘れようとしているように思えたが、ドイツの人たちは、その後出会った人たちを含めて、反省をも含めて戦後が継続している感じを強く受けた。民族の経験というものを大切に守りそこから立ち上がる強さのようなものを持っていた。これはヨーロッパにおける精神的な規範としてどの国も持っているものだということは今日でも明らかなことである。

 ドイツの一年目には様々な出会いがあったが、もう一つ忘れられないのが、ある牧師との出会いである、今になっては名前を思い出すことができないのだが、その人はその下宿に私が一人でいるときに訪ねてきた。噂で今度日本人が来たらしいと聞いたのであろう。当時のドイツはまだ教会の力が市民の間にいきわたっていた。社会に受け入れられるためにも、その人間がどのような思想と宗教によって存在しているのかを明確にする必要があったのである。特に大都市とは異なる地方の町においてはそうであった。ちなみに私の住んだ土地はハンブルクからは外れシュレスヴィッヒホルシュタイン州に属していた。牧師さんは音楽好きな人で、私がピアノを弾くのを楽しそうに見ていた。エドウィン・フィッシャーが好きだというと、フィッシャーを親しく知っていた人を紹介してくれたり、フィッシャーの知られていない録音をくれたりした。一緒にある夫人を訪ねた時に夫人はフィッシャーの思い出を話してくれて、いろいろな弟子の写真も見せてくれたが、その中に印象の強かった人としてその夫人が示した人が、デンマークのピアニストヴァシャーヘルリ氏だった。ヴァシャーへルリ氏のことを知っている人は少ないだろうと思うが、芸大にも客員教授で来ていたが、主に武蔵野音楽大学で長く教えられた人で素晴らしい音楽をする人であった。私も何度か彼の演奏を聴き感動したものだ。その話をするとその夫人は涙をためた目で感動して聞いてくれた。音楽というのは何てすばらしいのだろうと思った。美しい音楽の記憶は人と人とを結びつける。遠く離れ会うことも偶然だった二人の人間が一人の音楽家の美しい音楽で記憶が結ばれる。本当の友人になれるのだ。  その牧師さんとは付き合いが長く続いた。その後、私はリューベックに住んだが丁度その街に牧師として赴任していた彼とは時々話をしていた。ある時、夏だったと思うが、彼の教会のオルガニストが高齢で、しかも病気がちで勤めが果たせない、次のオルガニストが来るまで数回ミサでオルガンを弾いてくれないかという頼みがあった。足鍵盤はだめだが、何とかなるだろうと思い引き受けた。これが私にとって素晴らしい経験となった。ドイツでは音楽で生活するのに一番確実なのはオルガニストの資格を取ることである。リューベックの音楽大学は昔オルガンが中心の学校であり学生も多かった。オルガン科はA試験とB試験、がありA試験で資格を取るためには音楽指導や作曲もできることが求められ、まるでバッハの頃の制度を思わせるものであった。私はその夏の数回、バッハの時代の音楽世界にいるような気持ちでミサを務めた。牧師さんと打ち合わせをして、我らが父よ・・と言って手を広げた時に、これこれのコラールを弾き始めるとか、約束を忘れずに鏡を見ながら緊張して務めた。(オルガンは鍵盤が壁に向かっているので牧師さんは鏡でしか見えない)その教会では大人のミサの前に、子供のためのミサがあり20人ほどの子供が来ていた。イエスキリストはいつもあなたのそばにいます、あなたが探しさえすれば・・・と牧師さん、子供は・わたしは探します、と答える。それを一人ずつ繰り返すのだ。私は、毎週のこの繰り返しが子供たちの精神に働きかける力を想像してヨーロッパのキリスト教による経験の深さを思い知るのであった。 私の留学は始まったばかりであった。厳しく苦しい修行はまだこれから続くのであるが、今、考えれば幸運なスタートを切ったものである。

ピアノを始めた頃

人生の節目にあたり、初心を思い出し歩いてきた道を振り返ることにしたい。 私が音楽を始めた頃、まだ街は戦後の雰囲気を残していた。片足の傷痍軍人が街角に立ち施しを受けている姿が眼に残っている。食べ物も少なく社会全体が貧しい時代であった。児童心理学を学んだ父が、多分子どもが音に関心を持つ様子を観察する為だろう、私の周りには子どもの為の楽器が配置してあった。笛や、太鼓、木琴、等で遊んだ記憶が遠い記憶にある。父はハーモニカを教えてくれた。子どもの娯楽など時々来る紙芝居くらいのもので、勿論テレビはない時代だ。朝のラジオ番組で“歌のおばさん”というのがあって毎朝楽しみにしていた。その頃地域の各所には児童会館というものがあって、そこは子どもたちの集まれる場所であった。今思い返してみて貧しい時代ではあったが温かみのある社会がそこにはあったように思う。その児童会館で私は父が教えてくれた得意のハーモニカを吹いたり歌ったりしていた。ピアノなどという楽器をまだ知らない頃の話だ。小学校にあがり音楽得意の私はハーモニカ奏者としてカルメン前奏曲など吹いていたが、ある時同じクラスの女の子がピアノを弾いた。エリーゼの為にだったと思う。私はすぐに弾けると思ってピアノのところに行ったが鍵盤を見て面喰ってしまった。その日は悔しくて母にピアノを習いたいと懇願したのがピアノを始めたきっかけである。家にピアノなど無いからバイエルに付いてきた紙鍵盤で練習を始めた。ソナタを少し弾けるようになった2年生の頃にピアノを買ってもらったが、それまでは紙鍵盤で練習していた。しかしこの紙鍵盤時代の練習は、決して悪いものではなかったと思っている。音を想像し歌わなければ楽しくないから、音を聞くようになったし、自然に歌うようになった。

子ども時代の記憶にもう一つ忘れられないものがある。ラジオ番組で日曜日の午前中だったと思うが“希望音楽会”という番組があった。クラッシック音楽が聞けた数少ない番組だった。思い出すのは(曲名は後年知ったが)ラフマニノフのパガニーニの主題による変奏曲の突然長調に変わったところの雄大な音楽を背景に女性アナウンサーの深くて美しい声で言われる「希望音楽会です・・!」という響きの心地よさだ。私はよく真似をして希望という言葉を毎回繰り返していた。
確かにあの時代、希望という言葉には深い意味があった。言葉というものは人間が発する声によって真の意味が与えられているものだ。つまり音によって支えられているということである。真実の心のこもった声は常に我々の周りにある。音の中にその人間の真性を見極めることが音楽演奏する者にとっても、聞く者にとっても音楽の中心であることは時代を越えて変わりはない。
 
一般に音というものは聴く者にその音が発生した契機を統合し判断するように仕向ける働きがあるが、まして、音楽は演奏する人間の質をも明らかにしてしまう怖いものでもあると言うのが音楽家として実感である。