コラム&エッセイ

 

熊野への道

 ここ数年、春に旅をしている。柏の自宅から四国・九州まで車で行くのだ。途中必ず奈良に立ち寄るし、帰りも奈良に寄る。すると奈良には帰ってきたような気持ちになるが、奈良は日本人にとってそのような場所である。四国はあまり馴染みのない土地であったが、自然の川の姿をとどめる吉野川、土手に咲く菜の花、手すりの無い流れ橋の風景が実に美しく感じられる。

 春は桜の季節である。日本の桜は性格を持った人のように見える。各地の神社仏閣に咲く花には趣がある。特に奈良の桜は懐かしい友のように感じる。寺や神社の桜は祈りの姿に見えるし、周辺の里の桜も美しい。室生の桜、大宇陀の桜、曽爾村の桜、里の風景に溶け込んで、長い歴史の中で人々が生き味わったであろう、毎年の変わらぬ春の姿を伝えてくれる。
 
 奈良まで来ると最近は熊野に惹かれるようになっている。高野山から龍神温泉への道は素晴らしい。高所から眺めると紀伊半島を深くえぐり蛇行し流れる川は神秘的な龍神を感じさせる。龍神温泉から十津川温泉までの国道425号線は細く危険な道で、正に酷道である。しかし、その道を行くうちに紀伊半島が日本神道の誕生した故郷であり、日本人の精神深くにある自然観がここから生まれたことを理解するのである。そしてその道は熊野本宮大社に至る。熊野本宮大社には神々が祭られているが、本地仏として阿弥陀如来や薬師如来など仏の名前もそこには書かれている。仏教が隆盛していた頃、日本古来の神々は仏の化身でもあるとされたのである。しかしそれは仏教を広めるためのその当時の都合であって、現代においては日本神道の神々の方が、阿弥陀如来や薬師如来も泰然と受け入れ堂々としているように感じられるのである。日本神道の神は自然である。山や川、谷間の巌、滝などが本来のご神体である。日本神道の大らかな宗教感は我々日本人の中にしっかりと根を下ろしている。仏教は奈良時代に唐から伝わりそれを統治の柱として時の天皇が世を治めるために利用したのである。その文化の衝突がもたらした熱き思いは奈良時代の仏像の姿に現れている。異文化との邂逅は常に日本の変容のきっかけになってきた。まるで青虫が蛹になり美しい蝶になるように。明治維新もそうであったし、戦後もまた、現代にいたる政治や文化にそのような変態ともいえる現象を可能にしてきた。それを可能にしたのは日本神道の自然を敬う敬虔なる心であろう。日本人がどのような文化的変容の中でも生きていける根源的エネルギーはまさに自然崇拝の神道的世界観にあるように思う。

 私は熊野の自然と日本の神道の神々を身近に感じるに至って、わたしの精神の旅路全体をやっと俯瞰し得たように思うのだ。天草や五島列島で見た日本の風景の中にキリスト教会が実に自然に溶け合っている姿、そして美しい教会の姿に感動した敬虔な仏教徒(鉄川与助)がキリスト教の教会を作ったという事実。それらも根底に日本人の精神の土台、つまりが自然への畏敬の念に満たされた、神々への敬虔な祈りが可能にしたものであるのだ。それは教義ではない、日本人の身体そのものだ。五島列島の奈留島でやはり鉄川与助が建てた江上天主堂を見た。その教会はもう人が住まなくなった土地にひそやかに立っていた。もう森に吸収されそうな姿であった。江上天主堂の内部は実に美しい。人々の信仰の形をとどめているように思えた。案内の人に信者はどのようにしているか、と問うと、「消えていきました。皆漁師ですからね、海の神様の方が強い」。といって笑っていた。日本は島国であり、異文化との邂逅が人間社会の新たな形を作っていくことは確かである。しかしそれは必ず日本化される。そのことを西欧的な人間中心主義で見れば堕落であろう。しかし日本人の中にある自然中心主義で見れば、純粋化した文化に作り替えたことになるのである。南方熊楠が発見した土壌の中の微生物や菌類が森の生命を繋ぐものであるならば、それにあたるのは日本神道的な自然崇拝の思想が日本化における精神的微生物にあたる。大変に面白いことに思えてそのことに肯定的な気持ちになったのだ。

 世界はもう昔の世界ではなくなっている。ヨーロッパの混乱は思想的にも政治的にも危ういところまで来ている。ヨーロッパの人間中心の思想は出口を持たない争いの中で新たな社会の理想を描けないでいる。西欧の人間中心的世界観は、自然を認識する対象として捉える。そこから科学的な精神が発達し現代の文明が出来てきたわけであるが、一方我々日本人本来の精神では、自然は認識する対象ではない、我々にとっての自然は共に生きる生命であり、認識の対象ではなく、理性が及ぶ範疇にあるものではない。それは美的体験と言っても良く、全体を一気に把握する力に繋がる人間存在の土台である。フルトヴェングラーが「偉大なものは単純である、それが全体という概念を含むからだ。科学的思考は全体を知らない」と書いていますが、自然を認識の対象として発展した西欧の科学的精神にとってはこの全体というものを明確に定義できない。スピノザの神は我々日本人の神というものに近づくものであるかもしれないが、それはごく当然のこととして我々の先祖から受け継いできた精神構造なのである。

 西欧ではキリスト教信者がイスラムのモスクを作るという事は決してあり得ない事だ。西欧人から見れば日本人の宗教観はいい加減で、ほぼ無宗教であると考えるだろう。教会で結婚式を挙げ、元日には神社に参り、葬式では仏教徒となる。こんないい加減な宗教的態度があるはずはないと考えるのだ。しかし混乱する現代を救うことが出来るかもしれない唯一の方法は、現存する宗教的ドグマから抜け出て新たな世界観を支える思想を生み出すことだ。宗教を超え、異文化・異なる人種への憎しみを捨てた新たな世界を作るために、新たな哲学を必要としているのではないであろうか。何百年もかかる事ではあろうが、そこに日本神道的な宗教感、新たなアニミズム的な宗教観を日本から強く発信できないだろうか、そんな事を夢想したのである。

 熊野では熊野古道を歩こうという人を多く見たが、驚いたことにほとんどが外国人(とくに西欧人)であった。フランスから家族連れで来ていた人がいた。人種の異なる若いカップルもいた。日本的な自然観に希望を見出す西欧人は多いのだ。日本人が考える以上に世界において日本的な自然観から来る安定した共同体意識に憧れる人々が増えているのだ。彼らの表情からは、西欧にはない生命共同体の一員であることでの安心感を心の底から求めている事を感じたのである。

 

紅葉と温泉

 日本の風景は春夏秋冬それぞれに趣があり、季節を味わう事だけでも生きている喜びを得ることが出来る。札幌での音楽会の後、車で東北のスケールの大きい紅葉を見ながら帰ってきた。八甲田山、奥入瀬渓流、十和田湖、玉川温泉から田沢湖への道は秋の紅葉の時期には素晴らしいドライブコースになる。東北の紅葉はブナ林の黄色が山全体に広がり見る人を圧倒する。

 帰宅して数日しかたたない昨日も、もう朝早く一人家を抜け出しで、栗駒山周辺の紅葉を見てきた。栗駒山は宮城県と秋田県の県境にある大きな山で紅葉の素晴らしいところだ。私はもう何回か訪れているが、秋にあの紅葉を見ないと心が落ち着かないようになっている。眺めの良い駐車場に車を止めてみると看板があり日帰り入浴が出来る宿があった。湯原温泉三浦旅館へは谷の底まで歩いて降りなければならない。快晴で日の光が黄色く染まったような森の中を歩き行ってみた。足元の悪い道であったがその道しかない。宿の主人はメインストリート!と笑ったが、暗くなると危険なメインストリートかもしれない。しかしこういう温泉は好きである。沢にはきれいな水が流れ滝もある。写真を撮りながら20分ほど歩き宿に付いた。そこは電気が来ないランプの宿だった。湯は単純硫黄泉で肌に優しい。実に良い湯である。露天風呂は紅葉を眺めながら、また滝の音を聞きながら入れる。日本人はみな温泉が好きである。私も大好きで沢山の温泉を訪れた。北海道、東北の温泉が多いが、私は車で旅するのが好きなので、これからも全国の温泉を出来る限り体験してみたいと思っている。今回発見した温泉も是非お勧めの温泉だ。ただ山歩きの心準備が要るかもしれない。そのあと子安峡温泉を通り、泥湯を訪れた。前から来たかった温泉であったが日帰りは終了した後であり入る事は出来なかった。しかしこの温泉の周辺は紅葉が見事であり、圧倒された。

 東北の温泉は鄙びていて趣がある。青森の黒石にある温湯(ぬるゆ)は朝早くから入れる。以前は4時からだったが今は5時からになってしまった。夜、車を走らせてフェリーに乗る前にひと風呂浴びると疲れが取れる。夏の農作業は朝早い。朝から多くの農家の人が温泉に浸かり地元の言葉で話しているが、私にはまったく分らない。まるで外国に来たようで実にリラックスできて楽しいのだ。

 その辺りには有名な酸ヶ湯、谷地温泉、蔦温泉など昔からある。秋田の玉川温泉は熱湯が湧きだすというより噴き上がる源泉が凄い。酸性が強く肌にピリピリとする。後生掛温泉、蒸けの湯、藤七温泉などの八幡平の温泉群も素晴らしい。温泉につかりながら見ず知らずの人と温泉自慢するのは楽しいものだ。そこから新たな温泉を知り行ってみる、という事を繰り返している。田沢湖の近くにある乳頭温泉 鶴の湯も古い鄙びた温泉で宿泊予約を取るのが難しい。秋田県にも良い温泉が多い。子安峡に降りてくると阿部旅館がある。フラッと立ち寄った温泉であったが湯と雰囲気がとても良い。車の旅はそういう発見が多いので楽しい。鳴子温泉は200円で入れる共同浴場、滝の湯がいい。
西日本は有名な温泉街は高級感を出した宿が多い。其れもまた良いものであるが、山陰地方には鄙びた温泉がある、三朝温泉はこの前の豪雨で河原の風呂はどうなったか心配である。九州は阿蘇周辺にある黒川温泉、霧島温泉などは入ったことがある。だんだん温泉自慢になってきたからこの辺で止めておこう。秋の紅葉の写真を紹介したい。

 

サッカーについての文化論

 しばらくぶりでエッセイを書きます。音楽雑誌への連載に書くことでなかなかエッセイを更新できなかったのでした。書くことは専門ではないので、このようなエッセイは気楽に書けるが、専門に関する事柄はよく吟味しなければ間違った理解をされて、その結果大切な音楽の世界に害悪をもたらすこともあり得るので書くには骨が折れる。(ムジカノーヴァに音楽の話は書いています。気になる方は読んでみてください。)  今日は音楽のことではなく、芸術のことでもなく、サッカーのことを書いてみたい。
 学生の頃であるからもう半世紀近く前になるが、東京に出てきて一番の喜びはスポーツの国際大会をじかに見られる事だった。スポーツが好きな私は、バレーボール・バトミントン・サッカーの試合は良く観に行った。特にサッカーは好きだったので国際試合は大体観た。サッカーは当時マイナーなスポーツで、日本のサッカーは弱かった。世界の試合を見られるのはテレビでのダイアモンドサッカーという30分番組だけだったように思う。ヨーロッパの美しいサッカーを見て日本とのあまりの違いに悲観し、日本はW杯に出ることなどないであろうと思ったものだ。当時は友人と試合を見に行くときも、国立競技場のバックスタンドにいると言うだけで、すぐに友人を見つけられるような観客の少なさだった。タイは強豪で、シンガポールに勝つのも難しかったのだ。まだ釜本が現役の時代で、ドイツ人指導者デットマール・クラマー氏が指導しメキシコオリンピック銅メダルを取ってから後の低迷期に入った時代だった。私の留学先はドイツだったからテレビで毎週サッカー番組を見るのが楽しみだった。実際にサッカー場に足を運ぶことは出来なかった。試合のある日は朝から駅の構内が殺気立っており、その迫力に怖気づいてしまったからだ。奥寺康彦選手がケルンに入団した頃で日本人選手がドイツで活躍する姿を頼もしく思った。奥寺選手が素晴らしいゴールを決めて月間最優秀ゴールに選ばれたこともあった。後年、アンカレッジ空港で日本代表の遠征中の奥寺選手を見かけ、あのゴールについて話したところ、見ていてくれましたか!と喜んでいた。日本人で知っている人が少なくて、、、と寂しそうだった。その頃は石井監督時代で最も弱かった時代のように思う。留学から日本に帰国して数日たった日、日本代表の試合がある事を知り国立競技場に行った。驚くことにかなり大勢の観客がいて、日本もサッカーが盛んになった!と嬉しかったのだが、試合が始まるとその大多数の観客は北朝鮮の応援に来た人である事が判明した。異様な雰囲気のホームゲームであった。三月で冷たい雨が降り茶色に枯れたグランドはぐちゃぐちゃの泥だらけで、日本が苦し紛れに遠くにけったボールが水たまりに落ちて勢いを失い止まったところに原選手が走り込みゴールして勝った試合だった。1985年のことである。ドーハの悲劇の時には友人と電話しながらお互い一言も話せず、ため息ばかり。一週間は落ち込んでしまった。それでもW杯に入口までは来たのだと慰めるしかなかった。次のW杯予選、日本のホームゲームのチケットは全試合まとめて販売された。私は朝早くから並んで手に入れた。国立競技場での初戦、ウズベキスタン戦では観客全員に新聞紙を細かく裂いた束が渡された。選手入場の時には満員の観客の放った紙吹雪が風に舞い、国立競技場は興奮に包まれた。この予選でも代表の試合運びは拙いものであった。どの試合も満員であったが、結果を不満に思う観客が競技場から去らず、抗議を続けた試合もあった。

 その日本がドイツに勝つまでになったことは、夢のような話である。そこに至るには多くのサッカー関係者の努力がある。特に川渕三郎という強い信念と行動力を持った一人の男の存在があったことを忘れてはなるまい。何の世界でも新しい世界を切り開くには強烈な個性を持った人間が必要である。川渕さんはまだ日本におけるサッカーの黎明期に選手として遠征したドイツでサッカーというスポーツが地域の文化として根付いていることに強い印象と感銘を受けた。日本にもそのようなスポーツ文化を花開かせたいという熱い思いがその後の川渕さんの行動力となった。日本のスポーツは学校スポーツや企業の宣伝塔としての存在が当たり前であった。プロ野球など現在でもそのように運営されている。日本のスポーツを地域の住民が共有する文化として捉える発想はそれまでにないものだった。ドイツでは各地にスポーツクラブがあり様々なスポーツを、誰でも専門の指導者の下で楽しめる。スポーツは単なる興行ではなく一人一人が参加する文化として認知されているのだ。スポーツマンという存在を、体を使った哲学者のようにとらえ、尊敬するのがヨーロッパである。この点で日本とは随分異なっていた。
 川渕さんは地域と結びついたスポーツ文化を実現させるという理想を守るために、旧来の企業スポーツに拘る、当時の読売ジャイアンツのオーナーに決して譲ることなく意志を貫いた。川渕さんはサッカーにとどまらず、分裂して消えかかっていたバスケットボールも統一させ地域リーグとして再生させたのである。育成から頂点のJリーグ、日本代表まで川渕さんを中心にしてサッカー関係者が協力して日本にしっかりスポーツ文化の礎を作ったのである。この組織としての強さは、必ずや日本のサッカーのレベルを高く押し上げてくれるだろう。これが文化というものだ。
 文化とは何か? “文化”として意識されることが無いほど、人々がその中で呼吸し、その中で生きるものである。昔、芸大学生の頃、近くのすし屋で噺家の落語を楽しんだが、間近で聞く落語は鑑賞するのではなく、参加するという思いが強い。ドイツで音楽も同じように、地域の人が集まりホームコンサートが開かれていてその演奏の質は驚くほど高い。文化とは与えられるものではなく参加する意識の中に醸成されるものである。
 毎年専門分野での業績に対して贈られる文化勲章であるが、川渕さんほど真の文化勲章にふさわしい人はいない。今年の文化勲章に川渕さんが選ばれて私は大変にうれしく思うのだ。
 
 

 

日本の教育について

 前に美術について書いていて、思い当たったことがある。それを書いてみようと思う。 私は幼稚園には行かなかった。今と違って幼稚園に行くことが当たり前ではなかった時代だから、幼稚園に通わなくてもそれは普通のことであった。近くの幼稚園で絵画教室のようなものがあり誘われて参加したことがある。その時に私の絵の描き方が下手だったのだろう、先生に笑われて「変な絵だね」と言われたのが後々まで響いた。幼稚園で習っていた子の様には描けなかったのだろう。その先生は幼稚園に通わない子との差を他の子に植え付けようとしたのかもしれない。幼児はすでに大人を観察する鋭い目を持つものである、それ以来先生というものに対する不信感が出来てしまった。同時に絵を描くことへのコンプレックスまで植え付けられてしまった。たった一度の体験が子供の心を萎えさせるのだ。多分その幼稚園の先生は絵ではなく記号を書くことを求めたのだ。幼児はすでに大人以上に真剣に人間を見ている。幼児教育には細心の注意が必要だと思う。そういう体験もあって、私の子供たちには幼稚園に通わせなかった。

 小学校に進み、算数の時間では1+1=2、なのに1×1が1なのがどうも納得がいかなかった。1回の1の意味と自然数1の意味がどうも納得いかなかった。年月が経て今度は私の娘が小学校で分数の割り算で苦労していて、話を聞いてやった。分数をひっくり返して掛ければ簡単に答えは出る。それで納得できる子は良い。成績は良くなるであろう。しかし2分の1を3分の1で割るとはどういうことか説明しろと言われると案外に難しいものだ。そこに1というものの意味が自然数1と全体としての1の違いがあることがわかるまで説明することなしには理解が不可能なはずなのである。おまけに話しているうちに娘がこんなことを言った「割るという言葉が嫌だ。割れるというとガラスが割れる、氷が割れる、というように砕け散っていく情景が見えてくる」その言葉を聞いて私はハッとした。そこでドイツ語でどのような言葉を使うのか調べてみた。ドイツ語では直訳すると、“含まれる”と言う言い方であった。2分の1の中に3分の1はいくつ含まれるでしょうと言う問いとなる。こちらのほうが理解しやすいし、説明もしやすいのは明らかだ。
 それと“倍”という言葉についても面白いことを聞いた。倍にするというと2倍ということ。では1倍という言葉に気持ち悪さはないのか。
もう少し大きくなると方程式の中に数字と文字が一緒に出てくる2✕=Yのように。ここでわからなくなる子供もいる。普通の子には何でもないも事にも、違和感を感じる子供がいるのだ。言葉と数字の関係、ここに本当の数学の面白さがあるのではないか。そこを教師は時間をかけて一緒に考えてあげることが大切だと思う。悩んでいる子供にとって、そこには一つの倫理観の問題が発生しているのだ。分数の割り算で悩む娘の心には言葉の豊かな世界が生じていたとは考えられないだろうか。私は娘の話からそう思った。世の中にはたくさんの子供が子供なりの倫理観で立ち止まってしまい、人より発達が遅れて見えることがある。嫌な言葉だが“落ちこぼれていく”ように見える。しかし私にはその落ちこぼれていく理由に様々な人間的景色が見えてきて、それはある意味で才能の芽に思えるのだ。足りないからそうなるのではなく、過剰に何かを感じるからそうなる事の方が多いと思われる。優等生は言うなれば単純な頭である。情報処理能力は高い。私が芸術的な仕事についているからだろうか。現代の能力判定には大いに疑義がある。因みに言葉に鋭敏であった娘は、今は上代文学(万葉集)の研究者になっている。
 演奏にしてもそうだ。評価は実に単純なものしか聞いていない教師からつけられる点数によるものであることが多い。下手そうに見えるが内に込められる熱を持つものもいる。しかしそれは評価には繋がらないらしい。だから若い人には演奏については、評価を気にすることをやめたほうが良いと言いたい。芸術家としての才を殺してしまうことになる。しかしそれは自分に甘くなることではないことは言っておく。自分に自分で評価を下せるようになることだ。零点もないし、満点もない。評価は最終点ではない、スタート地点である。自分の弱点を認めよ!それを克服する楽しみを持つことだ。

ドイツで興味深い話を聞いた。私の生徒で現地のギムナジウムに通う生徒がいた。進学を目指す子供たちが行くドイツの学校である。一般的には日本から仕事で来る人は受験を考え子供を日本人学校に通わせる。ピアノを教える私のところには両方の学校に通う生徒がいたので話を聞き、ドイツと日本の教育について考えさせられることが多かった。ある時ギムナジウムに通う子から面白いことを聞いた。クラスにそれほど難しくない数学の問題が解けない子供がいたそうだ。教師はその子に付きっきりになり、「君はどのように考えたか?」と忍耐強く黙って聞いて、そして、「面白い!よくそのような考え方が出来たネー」ととても褒めたらしい。そのあとで、「こうは考えられないかい?」と優しく説明を始めたそうだ。その話を聞いて私は羨ましかった。日本にもこういう良い教師が多くいて欲しい。私の中学・高校時代に経験した数学の授業は受験のために正解を早く出すことばかりやらされたが、数学は言葉だと言ってくれる先生がいたならば、と思わずにはいられない。数学の魅力は哲学と同じく言葉を一つ一つ規定しそれを高度に積み上げた概念の世界にある。正解を素早く出すことばかりが能力ではない。自然を直観する力、そこから導き出される倫理観の有無(宗教感と言っても良い)を見抜かなければ、人の能力なんて簡単に論じられるものではないと思う。岡潔さんの言う「数学は情緒だ」という言葉の真の意味は恐ろしく深いものであろう。
 岡さんと言えば、西日本新聞の社長をしていた方から聞いた話である。
若い記者の頃、岡潔氏と画家の坂本繁二郎氏の対談を企画し同席していたそうだが、対談が終わり録音テープも止められた後で、岡さんが「私は真理をどこまでも追っていくと美の世界に繋がるのですよ」と、繁二郎「そうですか・・私は美の世界を極めようと努力していると真の世界に繋がるのですよ」。二人とも静かに沈黙し、「不思議なものですなぁ」と遠くを見ていた姿が忘れられない、とその方から聞いたことがあった。強く印象に残っている。
岡潔氏と小林秀雄氏の「人間の建設」という対談集がある。お薦めする。

 

“美しいもの”と“美” “時”と“時間”

 音楽学の(故)礒山雅先生とお話しすることは楽しかったが、ある時私が美しいという言葉とという言葉をよく使うと言って笑っておられた。何気ない会話であったが少し書いてみたくなった。
 私が美しいと言う時には、自然からの感動が押し寄せ、その力に耐えられずに、美しいと漏らしてしまうようだ。「お前は美しい!時間よ留まれ!」と漏らすファウスト博士の目に映った世界と重なる。人間が作ったものや姿に対して使わない。セザンヌは絵を評するときに美しい絵とは言わないで、強い絵だ、あるいは弱いと言ったそうだ。

 美しいものに驚くことは沢山ある。朝の日の光、雨に濡れた木の枝、幼い子を抱く母の顔、それは永遠の中での私の存在を実感する時でもある。美しいものは発見されるのを待っているのだ。では“美”とは何か、美しいものではない。美とは、美を学問の対象とすることで始まる哲学的思索の中で言葉によって計測された概念である。芸術作品もまた人間が作り出す作品であることに変わりはない。美の抽出には意識的な作業と技の習得が必要であるから、技というものが持つ計測できる部分が欠かせない。技のないところに形、つまり“もの”は生まれない。
 美とは人間が作り出そうとする器であり、作品である。神に対して人間の見せる力技である。芸術は良い器を作りそこに人々の情感を招待するような作業であると感じる。芸術は自然を模倣すると言われるのはそういうことだ。
 
 現代では人はもの(器)を作ることを忘れて、揺れ動く情念を“表現”しようとする。表現という言葉をよく考える事なしに、あまりに表現という言葉に価値を与えすぎているように思う。そもそも表現とは、古典的世界からロマン派の時代に入り、自分を押し潰して絞り出すという、激しさを伴った“espressivo”  “ausdruck”という言葉を多用する時代的思潮の中で意味を持った言葉である。現代は押し潰されるべき人間の本体が軽く乾いたものになって、絞っても何も生まれないような状態の中で、圧し潰すという観念だけが独り歩きしている様に見える。
 音楽で例えるならば、音楽家は音という“もの”を作ることを忘れて、感動し揺れ動く自己を表現しようとする。“もの”を作ろうとする意識的な作業と技の習得を怠ると音楽は平板で誰が弾いても同じ顔しか見せない。本当の意味での個性が消えるのである。それは芸術としての質の劣化を意味する。現代ではどの演奏家も聴衆という匿名集団に向かってまるで演説するかのように巧みな雄弁術を誇る。しかしそれこそが芸術を貶めているのではないのか。そこには己の真実を語る誠実さも温かさもない。昔の演奏家には個性があった。温かさが演奏を始めた途端に我々を包んだ。エドウィン・フィッシャーは演奏を始める前に会場を覗き、今日はあの人に語り掛けようと思いステージに上がったそうだ。匿名の聴衆でも、ましてや審査員でもない。

似たようなことだが、“時”と“時間”についても考えてみよう。ごく常識的に考えてみる。
 我々は時の中に生きている。時とは過去・現在・未来を同時に含むものだ。
 私は病による療養中に庭でぼんやり花や虫の様子を眺めていることが多かった。そういう時、私というものが時の中にしっかりとした存在として在ることを感じた。見ようとはしないで、ただ眺めるだけの自然から無尽蔵な力が私に入ってくるのを感じた。しかし何かをしようとした途端、時は消え去り時間だけが残る。この差に大変驚いたのだ。時間というものは、時という豊かな部屋の中に刺さっている無粋な釘のようなものだと思った。釘には、行為の印がぶら下がっている。 時間は計測されることを存在の前提とする。時は人間が感じ取る確かな実感であり、計測を拒むものだ。
 
 音楽は過去・現在・未来を全体として捉えるから理解できるのであって、その意味で時の芸術なのだ。音楽は時そのものと言える。
計測され得るもの、と計測できないもの。そこには何らかの繋がりあるいは関係が存在する。ここを明らかにするような、言い換えれば人間の常識を科学的に証明してくれるような哲学が生まれてくることを願っている。芸術は哲学に対して常に注意を呼び戻そうと啓示を与え続けているのではないかと思うのだ。ベルグソンの哲学は“質と量”に関して、人間の自然な感覚を頼りに書いている。言葉で測ろうとする哲学者よりも音楽家、特に演奏家にはハッと気づく瞬間があるはずである。日々の修練の意味が新たになるような、目から鱗が落ちる様な感覚になるのではないかと思う。

 

美術について

 芸大の学生だった頃は学生証を見せると上野公園の博物館や美術館に無料で入れたから時間の空いた時には美術館にはよく通った。しかし私には美術に対しては何かコンプレックスのようなものがあり、作品を素直に味わえない長い期間があった。当時私は芸術に携わる仕事を一生の仕事としようと心に決め、その為には広く芸術の世界を知り、自分が音楽する意味をはっきり掴んでおかなければならないという焦りにも似た気持ちに追い立てられていた。私はまず文学から入っていった。本を読むのは好きだったから、すぐに夢中になって読みだした。しかし美術は子供のころ苦手意識を植え付けられたこともあり、どのように観ればよいのか自信がなく、美術館で名画を前にしても、解説的な言葉がまず浮かんできてしまい、楽しむというところにまでは至らなかった。子供のころの教育とは恐ろしいものである。このことについては改めて書くことにしたい。 たくさん観る事だ、という意見に従い美術館にはよく行ったが、美術を理解しようという硬い頭はなかなか変わらなかった。

 絵画について私の考え方が変わったのはドイツから帰国後のことだ。ある画家との出会いが私の美術に対する考えを変えてくれた。知り合いの紹介で彼の個展に行き絵を見て素直な感想を話しているうちに絵が好きになり所有したいとまで思うようになったのだ。
 絵を味わうことは、絵に対する評価を頭の中に言語化することではない。ただその絵とともに生きる時を想像できるか否かの問題である。自分自身の態度を定めることである。あの個展を見たときに、それまで自分は評価する、あるいは評価される対象としてしか美術を見ていなかったことがはっきり解ったのだ。誰でも部屋にかけるカーテンを選ぶときには自分の好みに合わせて選ぶではないか。それに近いような美術の受け入れ方があるのではないか、と考えることができたのだ。それは私には大変重要な変化であった。それ以来美術作品を、私の目が迷わず決められるようになった。絵は所有しないと本当にはわからないとよく言われるが、ある意味それは真実である。東京の国立博物館に法隆寺館がある。そこには小さい仏像が沢山展示してある。どの顔を見ても心が落ち着く。本当にポケットに入れて歩ける大きさだ。あんなものを毎日ポケットに入れて暮らせたなら、どれほど清らかな心で過ごせるだろう、そう思うと、あれが欲しい!と熱望した。盗んででもあれが欲しい、という狂気が生じたことを白状したい。所有したいほど対象に入れ込む、これが本当の美術の味わい方であろう。自分が選んだ作品はすでに私そのものである。
 そういう態度で眺めるならば、妙な言い方であるが、それがたとえコピーされたものだったとしても、また模写されたものであったとしても、その絵との間で交わりを持った私の心が真実であるならば、それで良いではないか。そう思えてくる。それ以来私は美術を味わう自由を得た。
 それから私の美術館巡りが始まった。画廊も覗いて歩いた。しかし値段は立派であるが、媚びるような絵が多くピンとくるものは実に少ないものだ。
 私の目を開いてくれた篠原土世さんと日浅和美さんご夫妻は二人とも画家である。パリに長く住み世界中で個展を開いている。私は何度もパリに行きご夫妻と絵の話をし、美術館を回った。さんざん美術館を巡ったあと、篠原さんと骨董市に繰り出すのであるが、それが実に楽しかった。パリなどでは骨董商が地方で買ってきたものが多いから高いが、田舎の骨董市は骨董商が集まり活気がある。美術館で養った目が獲物を追うように面白いものを発見する。
私は昔のバカラのグラスや銀食器、ガラクタのようなランプシェードなど買ってきた。17世紀の陶器の皿が2000円ほどで買えた。
少々脱線したが、目もまた美を欲するということを知り人生が豊かになったのである。美術に対するコンプレックスはすっかり消えた。

それからは各地の美術館を巡って楽しんだ。パリが多いが訪れた街の美術館は必ず訪れた。私は小さな美術館のほうが好きで、日本だと長坂にある清春白樺美術館には何回も行った。
 白樺派の人たちが集めた美術品を展示してある。清春の桜は素晴らしい。南アルプスの山々を背景に静かで落ち着きのある美術館である。
 東京だとブリジストン美術館が好きだった。静かでいつもほとんど人がいない。
 パリのルーブル美術館は何度も行ったが、大きすぎて人が溢れていて落ち着かない。オランジェリー美術館のほうがずっと絵を楽しめる。昔のオランジェリーは地下にモネの睡蓮の連作があり、人が少ない午後ソファーに座り絵を眺めている間に眠ってしまい、カエルになった夢を見た。マルモッタン美術館も良い。ピカソの館もとても面白い。セザンヌとアンリ・ルソーの絵が掛かっていた部屋に強い印象を受けた。ルオーやマチスも好きな画家だ。彼らを指導したギュスターヴ・モローにも興味を持ち彼の家がそのまま残る美術館にも行った。アトリエが保存されていて、フォーヴの作家たちが出入りした様子を想像した。ルーブルは大きすぎるが、それでもパリへ行くと必ずミレーの部屋、セザンヌの絵、ゴヤの肖像画、は必ず観る。美術に関して私はアマチュアだから、異なるスタイルの絵画にも等距離の親しみを持てるのだ。音楽ではこうはいかない、耳は厳しく選別してしまう。
 
 若い人たちには、何か一つ自分が毎日その作品と暮らしてみたいと思うものを手に入れることを薦めたい。それは人生の宝となるし、そこから豊かな感性が育っていくのである。
 我が家には篠原さんと日浅さんの作品が多くある。子供たちはそういう絵を見て育った。ある時、日浅さんの個展にまだ小学生の娘を連れて行ったが、絵の印象を聞かれた娘がすらすらと自然に話し出すのを見て嬉しく思った。

 

長崎・平戸

 辻邦生の小説は好きで若い頃はよく読んだ。「天草の雅歌」という小説は天草や長崎の隠れキリシタンと江戸時代の海外交易の中での人間を描いた歴史ロマンだが、小説の中にカタカナが自然に違和感なく溶け込んでいて、その効果が一種独特の異郷的な雰囲気を小説に与えている。私は日本における辺境の地を想像し、一度行ってみたいと思っていた。私自身も辺境の地北海道生まれだったからかもしれない。
 数年前に長崎に行った。朝、ホテルの窓のカーテンを開けると目の前に大浦天主堂が立っていた。その時の衝撃を何と表現したらよいであろう。外国にいるのではないかと思い、一瞬感覚がマヒした。天主堂は美しかった。天主堂の内部はもっと美しかった。そこからグラバー邸へ歩いた。グラバー邸からは長崎の海が見渡せた。その時小説のことを思い出したのだった。長崎の町には色々変わった建物がある。中国風の寺や見慣れぬデザインがあちこちにある。とにかく異国的なのだ。夜は街中でも街灯が暗く、ゆっくり行く路面電車の明かりが妙に艶めかしく感情を揺すぶられる。人と話をしても、家にある代々受け継いだ神棚の脇に竹筒があってその中にロザリオがあった、などという話が普通に語られる。天主堂が自然に風景の溶け込んでいる土地、私はもっとこの辺りを知りたくなった。

 今年の春に再び長崎県平戸まで行った。平戸の海は同じ辺境である北海道の海とは違う表情があった。海というのも、同じ水でつながってはいるが、陸上の自然と同じで匂いも雰囲気も異なるものであるらしい。港の海を見ながらこの先の五島列島に引かれる思いがした。平戸には教会がたくさんあるが、まず田平天主堂に行った。堂々とした教会建築である。墓地には十字架を伴った墓石が並び、美しい花が捧げられていた。正面には美しいマリア様の像があり、花壇の手入れも良くされていて信者たちの熱い信仰が感じられた。この天主堂は畑の中にある。少し離れたところから撮影すると咲き出した菜の花の向こうに教会が立っている絵が撮れる。私を一層感動させたのは、この教会を作った人物を知ったことによる。

 田平天主堂は鉄川与助という明治12年生まれの棟梁が作ったのだ。明治に入りキリスト教禁止令が解かれ信者は教会を建てることを願った。その結果長崎や五島列島、それに天草で教会が作られていった。鉄川与助は長崎の大浦天主堂の美しさに感激し、大浦天主堂のマルク·マリー·ド·ロ神父から教会建築について多く学び、田平天主堂は大正7年(1918年)に建てられた。しかし鉄川与助は終生敬虔な仏教徒として生涯をおくったそうだ。私はこの話を聞いて本当に驚き感動した。敬虔な仏教徒がカソリックの天主堂を建築し、今は信者の祈りの場所になっているのだ。ヨーロッパでは考えられない話である。日本という国はそういう国なのだ。鉄川与助を動かしたものは教会建築の美しい形であろう。形は精神が生むと人は考える、しかし形が精神を作ることもあるのだ。しかも仏教徒が異教であるカソリックの祈りの天主堂を建てた。このことの意味を考えてみることは必要なことであろうと思う。宗教は時として醜く争い、非道なこともする、宗教というものは排他的なものに堕ちる狂気を含むものでもあることは歴史が証明している。しかし、“敬虔な心”というものは宗教的教義に先んじて存在するものではないのか。形は敬虔な心を揺り動かす力を持つのだ。芸術が先に在りその後を追うように宗教が生まれた、そう考えるのが妥当だと思う。昔々人類の祖先は、道具を作った、作った人間は死ぬが、残った道具は逝った人間の魂をとどめる。そこから宗教的心情が育まれていったに違いない。

  宗教と芸術との関係は複雑に絡み合っている。ヨーロッパ音楽を演奏する者は聖書を隅々まで読む必要がある。宗教画の意味や背景がわからなければ近代絵画も理解できるか疑わしい。マリア様の衣の色、青の意味、白や赤の歴史的な意味も記憶に留めなければならない。日本人の宗教に対する考え方は世界の中では特殊なものに映るであろう。私自身を振り返っても、バッハを教会で聞けば敬虔なキリスト教者になる、しかし興福寺の宝物殿で白鳳時代の仏塔の前では敬虔な仏教徒になる。神社に行けば手をたたき、仏前では手を合わせる。何かいい加減で、我々日本人の弱点のように思ってしまう。しかし先ほど述べたように宗教を生んだ“敬虔な魂”の下に人類が集まれば新しい世界が開けるのではないかと思えたのだ。鉄川与助の仕事は、西洋音楽に惹かれ仕事をする私にも、その意味を新たにしてくれたように感じたのだった。仏教徒としてでも、美しい音楽の形が作れないはずはない。文化とはそういうものだ。

 

奈良への道

  先日久しぶりで奈良に行った。秋晴れの空には秋の雲が広がり紅葉も始まっていて公園の鹿は穏やかに草を食んでいた。 奈良は日本人の心の故郷である。私も仏像と向き合うために今までに何度も奈良を訪れた。法隆寺には百済観音、救世観音、興福寺国宝館には白鳳時代の仏頭、八部衆立像、浄瑠璃寺の九体仏、東大寺の法華堂(三月堂)には不空羂索観音ほか見事な奈良時代の立像が並んでいる。 奈良時代の仏像は力に満ちていて、仏像から何かを訴えようとする声が聞こえてくる。平安期に入ると仏像は静かに目を閉じ瞑想するような姿となり、見事な庭の石と同じく静物となる。奈良の仏像の持つある種激しい姿は、唐から伝えられた仏教という異質な文明を受け入れる当時の日本人の熱量の高さを示すものなのであろう。平安期に入るとしだいに日本化されて穏やかな姿となる。その文明の化学変化のようなものは、明治維新がもたらした明治という時代の激しさから、大正ロマンへの変化と同質のものを感じてしまう。奈良時代の仏像の素晴らしさについては、和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」などを読んでいただきたい。

奈良に通い始めたのはドイツ留学から帰った年だが、その頃の心境について書き出すと長くなる。当時の私はドイツに8年住んで音楽を学びながら次第に日本的な文化について知らない自分が許せなくなっていた。帰国した私に大学時代の師である水谷達夫先生が、「君は幸運にもドイツ音楽の本物に触れた、いま新鮮な時に日本の本物を見ておきなさい」と勧めてくださった。帰国した年には何度も奈良に行き寺を巡って歩いた。知識を追うのではなく、ただボンヤリと法隆寺の境内に身を置き時間の過ぎるのに任せて何時間も佇んでいた。百済観音は当時まだ宝物殿というところにあって、狭い空間の同じ空気の中で対面することができた。どのくらい佇んでいたのか・・・。すると百済観音から声のようなものが聞こえてきた。そうしたら体が動けなくなってしまったのだ。そのことがあって後、奈良では仏像の声が聞こえてくるまで腹に力を溜めて向き合うのが私の仏に対する作法となった。興福寺の白鳳の仏頭も、昔は今より低い位置にあって対面すると真正面から目が合い怖かった。怖いときもあれば、慈愛に満ちた顔に見えるときもある。もう35年も前からの事であるから、私には奈良で対面する仏像の顔には私の歴史が映って見える。八部衆の緊那羅(キンナラ)像とも長い付き合いで親しみを感じている。緊那羅は体中に力が満ち、胸には空気が溜まって今にも語りだしそうだ。遠くから眺めたり、近づいて私も同じく息をつめて凝視したりする。千年もの間、何を悩むのか?何を言いたいのか?その声を聴こうと集中する。
 
昔は車を持たなかったから、新幹線で京都に降り近鉄で奈良に向かった。百済観音と救世観音が聖徳会館で同時に並べて展示されるとニュースで知ると直ぐに駆けつけた。不空羂索観音の冠が修理を終えて展示されると聞くと出かけて行った。一生の間にもう見られないかもしれないものを沢山見たのである。

私は北海道の生まれで、北海道の自然はヨーロッパに近く空気も色彩感も日本的なものとは異なる。高校で日本の古典文学を学んでも、まるで外国の話のように思えるというのが本当のところであった。今でも北海道の人はそうだと思う。高校の修学旅行で京都の大原を歩き、青い空と白壁と柿の色のコントラストを美しいと思った。それが柿を見た最初だった。北海道人にとって日本文化は体質的には異質のものなのである。このことは生き方、考え方、人間に対しての感じ方すべてに通じる。

奈良や京都、いや東京ですら現在の生活の場はかつての文化が栄えたその上にあるという実感がある。奈良や京都の細い曲がりくねった小路を歩いていると、もしここに生まれ育ったならば西洋音楽などしなかったと思えてくるのだ。歴史の重みの中で生きているという実感は、北海道では感じることができない。そのことは私に何か虚ろな感じと言うか、うしろめたさのような気持ちをいつも抱かせていた。しかし日本語を使う以上、その歴史の中に私の精神のよりどころが形成されているに違いない。そういう文化的な根が私のどこにあるのかを確かめたくなったというのが、帰国した頃の想いであった。そこを確かめること無しには、これから一生の仕事として音楽をしていく土台が危ういと思えた。私は再び日本を学ばなければいけなかった。私にとって異質なものを我が物として消化することにおいては、日本文化も西洋の音楽も同じ距離感を持っていた。
 
そういう気持ちで訪れた最初の奈良への旅で法隆寺の境内で佇んでいると不思議なことに懐かしい感情が、まるで木の根が水を吸うように私の体に入ってくるように感じ、日本の歴史の中で生まれた人間として日本の文化の中でも西洋音楽を続けていけるという自信が持てたのだった。水谷達夫先生の予言通り、現在でも奈良に行くとドイツから帰国した時の高揚した心に戻れるのである。異質な文化を理解し消化するには、ヒュマニティつまり人間性というものを土台として考える他あるまい。異質なものは外界にあるとは限らない。自身の心に入り込んでくるものでもある。
奈良の仏像は、「自己に問え!」千年以上もそう語りかけ続けているように思う。

 

言葉を支える音

  言葉は語られた瞬間には疑いようのないはっきりした形を有するが、書かれた言葉は読む人の心次第でまるで違った色調を帯びる。そのことを真剣に考えてみる必要があると思うのでそのことを書いてみようと思う。 以前エッセイに書いたが、(ピアノを始めたころ)昭和30年頃、物心ついた私の見た光景は終戦後の匂いが残る街の様子だった。そのころラジオで希望音楽会という放送を聞くのを楽しみにしていたが、アナウンサーの「希望」という声はあの時代に生きた人の心を良く表していた。現代ではどうだろうか、「希望者は手を上げて‥」というように軽く用いられるのである。私のエッセイの闘病記の中で「志しについて」という文を書いたが、これは入院中に見るでもなくつけていたテレビで午後のワイドショウのコメンテーターと称する人が「志し」という言葉を下品な声で喚き散らしているのを聞いて、美しい言葉がドブに打ち捨てられているのを見た気がして我慢ならなくなって書いたのであった。 言葉というのは生き物である。時代と共に新しい言葉も生まれる。それはそれでよいのだ。私は音楽家であるから人の声の出どころというか、音声の真実さについては直観が働く。言葉という物は語られる音によって本来の形を得るのではないだろうか。そうすると書かれた言葉、文章を読むという事は簡単ではない事がわかる。ソクラテスが文章を残さなかったのも言葉と音という一致したものの純粋さから外れたくはなかったのだろう。しかも雄弁術としての声で語るのではなく、相手との静かな会話の中に広がる知恵の働きだけを信じた。そのことで思い出す言葉がある。エドウィン・フィッシャーの言葉を師のハンゼン氏から聞いた話だ。フィッシャーはステージに上がる時に会場にいるある一人を決めて(常に美しい女性だったという事だが)、その人に話しかけるように演奏したという話だ。大衆ではなくただ一人に話しかける・・・、雄弁術的な演奏ではない音楽演奏、現代が失っているものを的確に言い表しているのではないだろうか。私が大切にしている言葉である。 文学にはという形式がある。これは書き物を読むのとは違って読む人に無意識に歌わせる、つまり音を与えることを要求してくるのである。好きな詩を口ずさむとき、人は既に言葉に音を与えて自らの音を聞き自分の言葉として所有しているのだ。 文章で作家の肉声を伝える、つまりどのような声で読むべきかを読者に感じさせるのには大変な技が必要なのだろう。単にテクニックの問題ではないであろう。良い文章には魂がこもっているからだ。

逆に作家の肉声を聞くことも私の楽しみの一つである。小林秀雄さんは多くの講演を記録に残しているが、語り口が実に見事で間の取り方と声の調子が言葉に小林さんの想いを強く焼き付けて一度聴いたら忘れられないような感銘を与える。
森有正さんは苦しそうな、押し殺したような声で語る。高田博厚さんは激しい気性の人で現代の軽薄なる知識人にたいする怒りのようなものをぶつけている。高田さんのトルソに見られる、静かで堂々とした姿の裏にこのような激しさがあるのである。高田さんの文章のエネルギーは既存の言葉では表せない時には言葉を作ってしまうほどで、それがまた文章の魅力になっている。
谷崎潤一郎は油断のならない人物に思えるし、志賀直哉と梅原龍三郎の会話など、たわいのない会話であるが彼らの作品を思い、まるで神々の遊ぶ様子に思えてくる。作家の肉声を聞くと彼らの文章は作家の声で聞こえてくるようになる。文章を読む楽しさはここにあるように思う。

 

北海道大雪山の秋

 9月中旬、早くも大雪の山々は紅葉の盛りである。高山の紅葉はあっという間に過ぎ去る。そのほんの一瞬の輝きは素晴らしいものだ。今年も紅葉の知らせを受けて、すぐに北海道へ向かった。高原山荘から大小の沼を巡って歩いたが、見事な紅葉であった。二年前にもこのコースを歩き感激したが、今年の紅葉はまた一段と素晴らしかった。大雪山の標高1500メートルあたり、沼に映る紅葉は冷たい秋の澄んだ空気の中で輝いていた。 大きい自然を前にして動物と同じ気持ちになって自然の中にいる自分を感じる。実際この辺は熊の巣といわれるくらいのヒグマの生息地である。ヒグマの出没に合わせて歩けるところが制限される。今回は空沼まで歩けた。

大雪山という山はなく、赤岳、黒岳、白雲岳、緑岳などという山々が高い台地を形作っている全体を大雪山という。赤岳にはよく登った。銀泉台からの登山道は高山植物の宝庫である。7月中旬まだ雪渓がたくさん残る道を登っていくと、頂上付近は雪渓に覆われた中腹よりずっと早く花が咲き始めている。風を避けるように岩陰に小さな花々が寄り添い咲いている。赤岳から小泉岳辺りはそういう花々が密集していて、身を低くして花の視線にしてみると・・それは何とも素晴らしい花園であった。
 
黒岳から北海岳を経由し白雲小屋に泊まった夏のある日、早朝、明け始めた空には星が輝いていたが、腰かけた岩の周りに咲く花を見ていた。風もないのに花が揺れる。よく見ていると小さな花々が別々の方向に動くのだ。不思議な感覚に襲われた、まるで花々が話をしているようにみえて、何の話をしているのかと夢想した。全く音のない静寂の世界、遠くにはトムラウシの姿、高根ヶ原に伸びるトムラウシへの道、大雪山には美しい思い出がある。大雪山は優しい花の山である。
 
後ろ髪を引かれる思いで高原沼から引き返して下山してきた。大雪山の紅葉の景色をお伝えしたい。

遠野の祭り

 私は北海道まで車で移動することが多い。9月中旬、北海道からの帰り道、ちょうど遠野の祭りがあることを知り立ち寄った。遠野の祭りを見るのは二度目である。前回は大震災の年の秋であった。壊滅的な被害を受けた釜石や大槌町からも多くの人と神輿が参加し、心を合わせて復興を祈願する熱気にあふれていた。祭りは本来見るべきものではなく参加するべきものである。足並みを合わせて神輿を担ぎ、踊り、ともに収穫を祝い神に感謝するものであろう。しかし現代においては、すべてが難しくなってしまった。私は祭り本来の力を感じたくて、江戸時代の農民になった気持ちでそこに存在するように意識を集中して祭りを見ていた。たしかに東北の祭りには熱がある。祭り本来の力を感じる。遠野の町は小さい町である。どこにこれだけの住民がいたのかと思うほどに多くの人が集まっていた。歩き始めた幼児までが神輿を追う。京風な南部ばやしの行列では、薄化粧し、鼻筋に白い線を引いた稚児の幻想的な美しさに驚いた。特に夜には、調子が一段と上がった激しい獅子踊りや、暗闇に浮かぶ娘たちの美しい姿などが不思議な想像力を喚起し、まるで黒澤明監督による“夢”の一場面を見るかのようだった。生き生きとした想像力・・この力を現代の我々はどれほど持っているだろうか。

柳田国男の遠野物語の話は現代においては不意を突かれるような話であろうが、実際にその通り本当の話であるとして読んで初めて命ある話となる。ノスタルジー的な気分を追うのではなく、幼いころの想像力に戻って読まなければならない。
 
 次の日、この地方の“おしら様”を祭った伝承館でこの土地に伝わる民話を土地の言葉で語るおばあさんの話を聞いた。祭りを見に来た人たちが多く来ていて、たくさんの人に囲まれて囲炉裏に車座になり話を聞いた。方言のイントネーションはクラヴィコードで古い知らない国の音楽を聴くような心地よい感覚にさせられた。荒唐無稽な話を一心に聞き入る人々の顔が実に嬉しそうであることを確かめて私は感動していた。子供のころ天井の板の木目に怖い顔を見て怯えた心を忘れてはいけない。“なまはげ”に泣く子供の心を忘れてはいけない。
 合理的に考え、正しいことを導き出すように躾けられた我々に、遠くなった昔の、想像力に満ちた世界は人生の豊かさについて深く教えてくれるのである。
帰りの車窓から見る実った稲穂の美しい田がより美しく感じられた。