コラム&エッセイ

 

長崎・平戸

 辻邦生の小説は好きで若い頃はよく読んだ。「天草の雅歌」という小説は天草や長崎の隠れキリシタンと江戸時代の海外交易の中での人間を描いた歴史ロマンだが、小説の中にカタカナが自然に違和感なく溶け込んでいて、その効果が一種独特の異郷的な雰囲気を小説に与えている。私は日本における辺境の地を想像し、一度行ってみたいと思っていた。私自身も辺境の地北海道生まれだったからかもしれない。 数年前に長崎に行った。朝、ホテルの窓のカーテンを開けると目の前に大浦天主堂が立っていた。その時の衝撃を何と表現したらよいであろう。外国にいるのではないかと思い、一瞬感覚がマヒした。天主堂は美しかった。天主堂の内部はもっと美しかった。そこからグラバー邸へ歩いた。グラバー邸からは長崎の海が見渡せた。その時小説のことを思い出したのだった。長崎の町には色々変わった建物がある。中国風の寺や見慣れぬデザインがあちこちにある。とにかく異国的なのだ。夜は街中でも街灯が暗く、ゆっくり行く路面電車の明かりが妙に艶めかしく感情を揺すぶられる。人と話をしても、家にある代々受け継いだ神棚の脇に竹筒があってその中にロザリオがあった、などという話が普通に語られる。天主堂が自然に風景の溶け込んでいる土地、私はもっとこの辺りを知りたくなった。 今年の春に再び長崎県平戸まで行った。平戸の海は同じ辺境である北海道の海とは違う表情があった。海というのも、同じ水でつながってはいるが、陸上の自然と同じで匂いも雰囲気も異なるものであるらしい。港の海を見ながらこの先の五島列島に引かれる思いがした。平戸には教会がたくさんあるが、まず田平天主堂に行った。堂々とした教会建築である。墓地には十字架を伴った墓石が並び、美しい花が捧げられていた。正面には美しいマリア様の像があり、花壇の手入れも良くされていて信者たちの熱い信仰が感じられた。この天主堂は畑の中にある。少し離れたところから撮影すると咲き出した菜の花の向こうに教会が立っている絵が撮れる。私を一層感動させたのは、この教会を作った人物を知ったことによる。

 田平天主堂は鉄川与助という明治12年生まれの棟梁が作ったのだ。明治に入りキリスト教禁止令が解かれ信者は教会を建てることを願った。その結果長崎や五島列島、それに天草で教会が作られていった。鉄川与助は長崎の大浦天主堂の美しさに感激し、大浦天主堂のマルク·マリー·ド·ロ神父から教会建築について多く学び、田平天主堂は大正7年(1918年)に建てられた。しかし鉄川与助は終生敬虔な仏教徒として生涯をおくったそうだ。私はこの話を聞いて本当に驚き感動した。敬虔な仏教徒がカソリックの天主堂を建築し、今は信者の祈りの場所になっているのだ。ヨーロッパでは考えられない話である。日本という国はそういう国なのだ。鉄川与助を動かしたものは教会建築の美しい形であろう。形は精神が生むと人は考える、しかし形が精神を作ることもあるのだ。しかも仏教徒が異教であるカソリックの祈りの天主堂を建てた。このことの意味を考えてみることは必要なことであろうと思う。宗教は時として醜く争い、非道なこともする、宗教というものは排他的なものに堕ちる狂気を含むものでもあることは歴史が証明している。しかし、 敬虔な心 というものは宗教的教義に先んじて存在するものではないのか。形は敬虔な心を揺り動かす力を持つのだ。芸術が先に在りその後を追うように宗教が生まれた、そう考えるのが妥当だと思う。昔々人類の祖先は、道具を作った、作った人間は死ぬが、残った道具は逝った人間の魂をとどめる。そこから宗教的心情が育まれていったに違いない。
 
  宗教と芸術との関係は複雑に絡み合っている。ヨーロッパ音楽を演奏する者は聖書を隅々まで読む必要がある。宗教画の意味や背景がわからなければ近代絵画も理解できるか疑わしい。マリア様の衣の色、青の意味、白や赤の歴史的な意味も記憶に留めなければならない。日本人の宗教に対する考え方は世界の中では特殊なものに映るであろう。私自身を振り返っても、バッハを教会で聞けば敬虔なキリスト教者になる、しかし興福寺の宝物殿で白鳳時代の仏塔の前では敬虔な仏教徒になる。神社に行けば手をたたき、仏前では手を合わせる。何かいい加減で、我々日本人の弱点のように思ってしまう。しかし先ほど述べたように宗教を生んだ 敬虔な魂 の下に人類が集まれば新しい世界が開けるのではないかと思えたのだ。鉄川与助の仕事は、西洋音楽に惹かれ仕事をする私にも、その意味を新たにしてくれたように感じたのだった。仏教徒としてでも、美しい音楽の形が作れないはずはない。文化とはそういうものだ。

 

奈良への道

  先日久しぶりで奈良に行った。秋晴れの空には秋の雲が広がり紅葉も始まっていて公園の鹿は穏やかに草を食んでいた。 奈良は日本人の心の故郷である。私も仏像と向き合うために今までに何度も奈良を訪れた。法隆寺には百済観音、救世観音、興福寺国宝館には白鳳時代の仏頭、八部衆立像、浄瑠璃寺の九体仏、東大寺の法華堂(三月堂)には不空羂索観音ほか見事な奈良時代の立像が並んでいる。 奈良時代の仏像は力に満ちていて、仏像から何かを訴えようとする声が聞こえてくる。平安期に入ると仏像は静かに目を閉じ瞑想するような姿となり、見事な庭の石と同じく静物となる。奈良の仏像の持つある種激しい姿は、唐から伝えられた仏教という異質な文明を受け入れる当時の日本人の熱量の高さを示すものなのであろう。平安期に入るとしだいに日本化されて穏やかな姿となる。その文明の化学変化のようなものは、明治維新がもたらした明治という時代の激しさから、大正ロマンへの変化と同質のものを感じてしまう。奈良時代の仏像の素晴らしさについては、和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」などを読んでいただきたい。

奈良に通い始めたのはドイツ留学から帰った年だが、その頃の心境について書き出すと長くなる。当時の私はドイツに8年住んで音楽を学びながら次第に日本的な文化について知らない自分が許せなくなっていた。帰国した私に大学時代の師である水谷達夫先生が、「君は幸運にもドイツ音楽の本物に触れた、いま新鮮な時に日本の本物を見ておきなさい」と勧めてくださった。帰国した年には何度も奈良に行き寺を巡って歩いた。知識を追うのではなく、ただボンヤリと法隆寺の境内に身を置き時間の過ぎるのに任せて何時間も佇んでいた。百済観音は当時まだ宝物殿というところにあって、狭い空間の同じ空気の中で対面することができた。どのくらい佇んでいたのか・・・。すると百済観音から声のようなものが聞こえてきた。そうしたら体が動けなくなってしまったのだ。そのことがあって後、奈良では仏像の声が聞こえてくるまで腹に力を溜めて向き合うのが私の仏に対する作法となった。興福寺の白鳳の仏頭も、昔は今より低い位置にあって対面すると真正面から目が合い怖かった。怖いときもあれば、慈愛に満ちた顔に見えるときもある。もう35年も前からの事であるから、私には奈良で対面する仏像の顔には私の歴史が映って見える。八部衆の緊那羅(キンナラ)像とも長い付き合いで親しみを感じている。緊那羅は体中に力が満ち、胸には空気が溜まって今にも語りだしそうだ。遠くから眺めたり、近づいて私も同じく息をつめて凝視したりする。千年もの間、何を悩むのか?何を言いたいのか?その声を聴こうと集中する。
 
昔は車を持たなかったから、新幹線で京都に降り近鉄で奈良に向かった。百済観音と救世観音が聖徳会館で同時に並べて展示されるとニュースで知ると直ぐに駆けつけた。不空羂索観音の冠が修理を終えて展示されると聞くと出かけて行った。一生の間にもう見られないかもしれないものを沢山見たのである。

私は北海道の生まれで、北海道の自然はヨーロッパに近く空気も色彩感も日本的なものとは異なる。高校で日本の古典文学を学んでも、まるで外国の話のように思えるというのが本当のところであった。今でも北海道の人はそうだと思う。高校の修学旅行で京都の大原を歩き、青い空と白壁と柿の色のコントラストを美しいと思った。それが柿を見た最初だった。北海道人にとって日本文化は体質的には異質のものなのである。このことは生き方、考え方、人間に対しての感じ方すべてに通じる。

奈良や京都、いや東京ですら現在の生活の場はかつての文化が栄えたその上にあるという実感がある。奈良や京都の細い曲がりくねった小路を歩いていると、もしここに生まれ育ったならば西洋音楽などしなかったと思えてくるのだ。歴史の重みの中で生きているという実感は、北海道では感じることができない。そのことは私に何か虚ろな感じと言うか、うしろめたさのような気持ちをいつも抱かせていた。しかし日本語を使う以上、その歴史の中に私の精神のよりどころが形成されているに違いない。そういう文化的な根が私のどこにあるのかを確かめたくなったというのが、帰国した頃の想いであった。そこを確かめること無しには、これから一生の仕事として音楽をしていく土台が危ういと思えた。私は再び日本を学ばなければいけなかった。私にとって異質なものを我が物として消化することにおいては、日本文化も西洋の音楽も同じ距離感を持っていた。
 
そういう気持ちで訪れた最初の奈良への旅で法隆寺の境内で佇んでいると不思議なことに懐かしい感情が、まるで木の根が水を吸うように私の体に入ってくるように感じ、日本の歴史の中で生まれた人間として日本の文化の中でも西洋音楽を続けていけるという自信が持てたのだった。水谷達夫先生の予言通り、現在でも奈良に行くとドイツから帰国した時の高揚した心に戻れるのである。異質な文化を理解し消化するには、ヒュマニティつまり人間性というものを土台として考える他あるまい。異質なものは外界にあるとは限らない。自身の心に入り込んでくるものでもある。
奈良の仏像は、「自己に問え!」千年以上もそう語りかけ続けているように思う。

 

言葉を支える音

  言葉は語られた瞬間には疑いようのないはっきりした形を有するが、書かれた言葉は読む人の心次第でまるで違った色調を帯びる。そのことを真剣に考えてみる必要があると思うのでそのことを書いてみようと思う。 以前エッセイに書いたが、(ピアノを始めたころ)昭和30年頃、物心ついた私の見た光景は終戦後の匂いが残る街の様子だった。そのころラジオで希望音楽会という放送を聞くのを楽しみにしていたが、アナウンサーの「希望」という声はあの時代に生きた人の心を良く表していた。現代ではどうだろうか、「希望者は手を上げて‥」というように軽く用いられるのである。私のエッセイの闘病記の中で「志しについて」という文を書いたが、これは入院中に見るでもなくつけていたテレビで午後のワイドショウのコメンテーターと称する人が「志し」という言葉を下品な声で喚き散らしているのを聞いて、美しい言葉がドブに打ち捨てられているのを見た気がして我慢ならなくなって書いたのであった。 言葉というのは生き物である。時代と共に新しい言葉も生まれる。それはそれでよいのだ。私は音楽家であるから人の声の出どころというか、音声の真実さについては直観が働く。言葉という物は語られる音によって本来の形を得るのではないだろうか。そうすると書かれた言葉、文章を読むという事は簡単ではない事がわかる。ソクラテスが文章を残さなかったのも言葉と音という一致したものの純粋さから外れたくはなかったのだろう。しかも雄弁術としての声で語るのではなく、相手との静かな会話の中に広がる知恵の働きだけを信じた。そのことで思い出す言葉がある。エドウィン・フィッシャーの言葉を師のハンゼン氏から聞いた話だ。フィッシャーはステージに上がる時に会場にいるある一人を決めて(常に美しい女性だったという事だが)、その人に話しかけるように演奏したという話だ。大衆ではなくただ一人に話しかける・・・、雄弁術的な演奏ではない音楽演奏、現代が失っているものを的確に言い表しているのではないだろうか。私が大切にしている言葉である。 文学にはという形式がある。これは書き物を読むのとは違って読む人に無意識に歌わせる、つまり音を与えることを要求してくるのである。好きな詩を口ずさむとき、人は既に言葉に音を与えて自らの音を聞き自分の言葉として所有しているのだ。 文章で作家の肉声を伝える、つまりどのような声で読むべきかを読者に感じさせるのには大変な技が必要なのだろう。単にテクニックの問題ではないであろう。良い文章には魂がこもっているからだ。

逆に作家の肉声を聞くことも私の楽しみの一つである。小林秀雄さんは多くの講演を記録に残しているが、語り口が実に見事で間の取り方と声の調子が言葉に小林さんの想いを強く焼き付けて一度聴いたら忘れられないような感銘を与える。
森有正さんは苦しそうな、押し殺したような声で語る。高田博厚さんは激しい気性の人で現代の軽薄なる知識人にたいする怒りのようなものをぶつけている。高田さんのトルソに見られる、静かで堂々とした姿の裏にこのような激しさがあるのである。高田さんの文章のエネルギーは既存の言葉では表せない時には言葉を作ってしまうほどで、それがまた文章の魅力になっている。
谷崎潤一郎は油断のならない人物に思えるし、志賀直哉と梅原龍三郎の会話など、たわいのない会話であるが彼らの作品を思い、まるで神々の遊ぶ様子に思えてくる。作家の肉声を聞くと彼らの文章は作家の声で聞こえてくるようになる。文章を読む楽しさはここにあるように思う。

 

北海道大雪山の秋

 9月中旬、早くも大雪の山々は紅葉の盛りである。高山の紅葉はあっという間に過ぎ去る。そのほんの一瞬の輝きは素晴らしいものだ。今年も紅葉の知らせを受けて、すぐに北海道へ向かった。高原山荘から大小の沼を巡って歩いたが、見事な紅葉であった。二年前にもこのコースを歩き感激したが、今年の紅葉はまた一段と素晴らしかった。大雪山の標高1500メートルあたり、沼に映る紅葉は冷たい秋の澄んだ空気の中で輝いていた。 大きい自然を前にして動物と同じ気持ちになって自然の中にいる自分を感じる。実際この辺は熊の巣といわれるくらいのヒグマの生息地である。ヒグマの出没に合わせて歩けるところが制限される。今回は空沼まで歩けた。

大雪山という山はなく、赤岳、黒岳、白雲岳、緑岳などという山々が高い台地を形作っている全体を大雪山という。赤岳にはよく登った。銀泉台からの登山道は高山植物の宝庫である。7月中旬まだ雪渓がたくさん残る道を登っていくと、頂上付近は雪渓に覆われた中腹よりずっと早く花が咲き始めている。風を避けるように岩陰に小さな花々が寄り添い咲いている。赤岳から小泉岳辺りはそういう花々が密集していて、身を低くして花の視線にしてみると・・それは何とも素晴らしい花園であった。
 
黒岳から北海岳を経由し白雲小屋に泊まった夏のある日、早朝、明け始めた空には星が輝いていたが、腰かけた岩の周りに咲く花を見ていた。風もないのに花が揺れる。よく見ていると小さな花々が別々の方向に動くのだ。不思議な感覚に襲われた、まるで花々が話をしているようにみえて、何の話をしているのかと夢想した。全く音のない静寂の世界、遠くにはトムラウシの姿、高根ヶ原に伸びるトムラウシへの道、大雪山には美しい思い出がある。大雪山は優しい花の山である。
 
後ろ髪を引かれる思いで高原沼から引き返して下山してきた。大雪山の紅葉の景色をお伝えしたい。

遠野の祭り

 私は北海道まで車で移動することが多い。9月中旬、北海道からの帰り道、ちょうど遠野の祭りがあることを知り立ち寄った。遠野の祭りを見るのは二度目である。前回は大震災の年の秋であった。壊滅的な被害を受けた釜石や大槌町からも多くの人と神輿が参加し、心を合わせて復興を祈願する熱気にあふれていた。祭りは本来見るべきものではなく参加するべきものである。足並みを合わせて神輿を担ぎ、踊り、ともに収穫を祝い神に感謝するものであろう。しかし現代においては、すべてが難しくなってしまった。私は祭り本来の力を感じたくて、江戸時代の農民になった気持ちでそこに存在するように意識を集中して祭りを見ていた。たしかに東北の祭りには熱がある。祭り本来の力を感じる。遠野の町は小さい町である。どこにこれだけの住民がいたのかと思うほどに多くの人が集まっていた。歩き始めた幼児までが神輿を追う。京風な南部ばやしの行列では、薄化粧し、鼻筋に白い線を引いた稚児の幻想的な美しさに驚いた。特に夜には、調子が一段と上がった激しい獅子踊りや、暗闇に浮かぶ娘たちの美しい姿などが不思議な想像力を喚起し、まるで黒澤明監督による“夢”の一場面を見るかのようだった。生き生きとした想像力・・この力を現代の我々はどれほど持っているだろうか。

柳田国男の遠野物語の話は現代においては不意を突かれるような話であろうが、実際にその通り本当の話であるとして読んで初めて命ある話となる。ノスタルジー的な気分を追うのではなく、幼いころの想像力に戻って読まなければならない。
 
 次の日、この地方の“おしら様”を祭った伝承館でこの土地に伝わる民話を土地の言葉で語るおばあさんの話を聞いた。祭りを見に来た人たちが多く来ていて、たくさんの人に囲まれて囲炉裏に車座になり話を聞いた。方言のイントネーションはクラヴィコードで古い知らない国の音楽を聴くような心地よい感覚にさせられた。荒唐無稽な話を一心に聞き入る人々の顔が実に嬉しそうであることを確かめて私は感動していた。子供のころ天井の板の木目に怖い顔を見て怯えた心を忘れてはいけない。“なまはげ”に泣く子供の心を忘れてはいけない。
 合理的に考え、正しいことを導き出すように躾けられた我々に、遠くなった昔の、想像力に満ちた世界は人生の豊かさについて深く教えてくれるのである。
帰りの車窓から見る実った稲穂の美しい田がより美しく感じられた。